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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の一

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―俺の家は、五十石扶持のたいした家系ではない。さりながら、それをいえば、失礼なようだが、そなたの父御も昔はお側用人を務めたとはいえ、上さまのご勘気を蒙って逼塞して久しい。今更、格式張ったことを申さず、貧乏御家人の家から嫁を迎えたとて、誰も文句は言うまい。どうだ、美津濃(みつの)を嫁に貰うてやってはくれまいか。
 顔どころか存在すら記憶していない娘をいきなり嫁にと言われて、頷けるはずもない。
―済まん、先刻はあのようなことを申したが、真は我が家とそなたの家が釣り合うはずもないと端から判ってはいるのだ。しかし、そなたを一途に慕い続ける妹の恋心を思うと、ああでも言わずにはおれなかった。頼む。
 放っておけば、土下座までやりかねない新悟を前に、敬資郎は内心、弱り果てた。
 結局、この話は〝他に惚れた女がいる〟と断った。
―なんだ、おぬし、堅物そうに見えて、やることはやっておるのだな。
 新悟は根に持つ性格ではない。そう告げて至極残念そうではあったが、からからと笑い、〝今夜は自棄酒ゆえ、そなたも付き合え〟と、さして得意でもない酒にとことん付き合わされる羽目になった。
 新悟の気性を考えれば、あれこれと言い逃れの理由をつけるよりも、惚れた女がいると言った方がいちばん良かったのだろう。
―美津濃の気持ちを考えると、やはり不憫でならぬ。さてはて、帰宅して、どのように事の顛末を告げれば良いのだろう。
 頭を抱えて帰っていった新悟を見送りながら、流石に申し訳なく思った敬資郎であった。
 さて、自分も早々に屋敷に戻ろうと座敷を出たところ、軽い眩暈を起こしてしまっての、この体たらくであった。
 先刻、新悟に
―実は、私には既に惚れたおなごがおりまする。
 そう告げた時、何故、あの娘の面影が脳裡に浮かんだのか。
 あれは今からもう半年も前のことなのに。あの少女のことは忘れるどころか、日を追うにつれて、よりくっきりと鮮明に記憶に刻みつけられてゆく。
 たった一瞬だけの出逢いが敬資郎の心をこんなにも揺さぶって止まない。あの少女と出逢った半年前の夜から、彼の時間はずっと止まったままだ。
―一体、どこにいる?
 あれから、どうしてもあの娘が忘れられなくて、町人町の若松屋を訪れてみた。しかし、まつという名の娘なぞ、若松屋にはいなかった。せめて似た歳格好の娘がいないかとひそかに探りを入れてみたものの、若松屋は既に嫁いだ上の娘と敬資郎と同年代の跡取り息子の二人がいるだけだった。
―おまつさまとおっしゃるお嬢さまは、うちにはおいでになりませんが?
 応対に出た番頭は露骨に不審そうな表情をしていた。それはそうだろう、ムキになったように〝おまつという名の娘はおらぬか?〟と繰り返す敬資郎は、誰が見ても尋常ではなかったはずだ。
 しまにいは胡乱なものでも見るかのような眼になったので、ここで町方でも呼ばれたら面倒だと、敬資郎は慌てて若松屋を後にしたのだ―。
 料亭を出ると、冷えた夜気が一瞬にして身体を包み込む。弥生の末といっても、夜はまだまだ寒い。江戸では数日前から桜の蕾が綻び始め、桜の名所と呼ばれる上野の寛永寺や随明寺はもう三分咲きだという。
 父泰膳も
―若いのだから、花見にでも行って気散じしてきなさい。 
 しきりに勧めてくれるが、実のところ、敬資郎の心はたった一人の娘のことでいっぱいで到底、花見見物など呑気にする気分ではなかった。
 冷たい夜気が酒の名残で火照った頬に心地良い。敬資郎はそのまま屋敷に帰る気にもならず、何とはなしに脚の向くままに当て処もなく歩き始めた。
 のんびりと歩きながら、ふと夜空を仰ぎ見やれば、いつか見た光景と同様に、漆黒の空を月と幾つもの星々が彩る。
 せめて、もう一度だけで良い、あの娘に逢いたい。
 もしかして、これがひとめ惚れと人が呼ぶものなのだろうかと、今更ながら気付き、微苦笑を刻む。何をしていても、飯を食っていても、風呂に入っていても、頭に浮かぶのは、あのまつという娘の面影ばかりだ。
 我ながら、このように一人の女―しかも相手はまだ子どもと言っても良い歳だ―に溺れる日が来ようとは想像だにしていなかった。
 これが友人、知人の話であれば〝あやつは女に惚けた大うつけよ〟と思いきり腹を抱えて笑ってやるに違いない。
 あの月に問えば、まつの居所を教えてくれるだろうか。切ない恋情を持て余しながら埒もないことを考えていた時。
 ふいに眼に飛び込んできた光景に、彼は懐かしいほどの既視感を憶えた。あの日も今のように、眉月から何げなく視線を転じたその先に蓼が可憐な花を咲かせていた。その花を眺めていたら、女の悲鳴が聞こえてきて―。
 それが、まつとの出逢いの始まりだった。
 敬資郎は特に信心深い方ではない。父泰膳は仏門に深く帰依し、殊に妻お郁を失ってからというもの、朝な夕なに仏前での読経を欠かさなかった。だが、今、この瞬間には、敬資郎は神でも仏でも何にでも感謝したい気持ちになった。
 月から視線を動かしたその先にあったのは、一分先の桜花(はな)だった。そう、半年前のあの夜の状況とひどく似ている。ただ、決定的に違うのは、夜空に浮かぶ月が今宵は痩せてはおらず、丸々と肥えていること。
 わずかに花をつけた桜の大樹がうっそうとした緑の葉を茂らせ、堂々と立っている。その下に佇むのは彼が誰よりも逢いたいと願ったその娘だった。桜が植わっている場所は川原とも呼べない河畔の狭い一角で、その手前に小さな橋がかかり、その下を名もない川が流れている。
 敬資郎は、いつしか和泉橋町まで帰ってきていたのだ。もっとも、深川から徒歩(かち)でゆくには、わざわざ和泉橋を通らずとも、帰り道は幾つもある。なのに、自分でも無意識にこの道を選んでしまったのは、やはり、まつという娘との始まりの場所だからだろうか。
 敬資郎が遠巻きに眺めているのも知らず、まつは何かを物想うように桜を眺めている。
 と、まつが急に腰を屈めた。しきりに脚許を気にしているようなのに、敬資郎はそっと近づいた。
「おまつどの」
「―!」
 まつが弾かれたように面を上げる。最初、その可憐な顔に警戒の色が浮かんだが、やがて、ハッとした顔になった。
「お武家さまは、もしや、あのときの―」
 どうやら、自分のことは、まつの記憶にも少しは残っているらしい。そのことに、かすかな安堵と大きな歓びを憶えながら、敬資郎は笑った。
「憶えていて下されましたか」
「あのときは、本当にありがとうございました」
 改めて丁重に頭を下げるまつを、敬資郎は優しい眼で見つめた。
「あれからどうなさっているか、また難儀されていはすまいかと案じておりました」
 その言葉に、何故かまつの顔がさっと翳った。
「何か―お気に障ることを言いましたか?」
 〝いいえ〟と、まつは緩く首を振った。
 再びうつむき脚許を気にしたそぶりを見せる。敬資郎は小首を傾げた。
「どうなされた?」
 よくよく見ると、右脚の突っかけた草履の鼻緒が切れている。紅が愛らしい、いかにも若い娘の好みそうな草履である。小さな白い素足が夜目にも眩しい。
「少し私に貸してご覧なさい」