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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の一

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 まつが消え入るような声で応えるのと、女将の声が高くなるのはほぼ同時のことだった。
「だったら! 良い加減に聞き分けてくれても良いんじゃないのかい。お前がその歳まで綺麗なべべを着て、美味しいものを口にしてこられたのも、すべてはその商売のお陰だってことを忘れちゃいけないよ」
「身寄りのない私を拾って下さったご恩はけして忘れてはおりません、お義母(かあ)さん」
 女将は既に三十も後半に差しかかろうとしている年頃だが、商売が商売だけに、到底、実年齢には見えない。けして美人というわけではないか、なかなか艶な中年増である。
 まつは、ここ吉原で育ち、知っている世界のすべてが狭い廓内だった。ここは、江戸吉原、幕府が認めた公設の売春地帯である。まつの家は、半籬(はんまがき)の〝春(しゆん)霧(む)楼(ろう)〟。半籬というのは大籬の大見世には劣るが、それなりの格式を持つ中級程度の女郎屋である。
 まつは、その春霧楼の女将の娘だ。娘といっても、実の子ではない。女将の亭主はもう五年も前に結核で亡くなり、夫婦の間には子がいなかった。まつは十四年前、春霧楼の前に棄てられていた棄て子だった。
 吉原には上は最高位の花魁から下は最下級の切り見世の廻し女郎まで幾千という娼婦がひしめいている。廻し女郎というのは、文字どおり、仕切りだけで隔てられた小部屋で日に何人もの客を取る安女郎を指す。
 従って、父親の判らない赤ン坊なんて格別珍しくはない。気付いたときには堕胎もできないほど胎児が大きくなっていて、仕方なく生むには生んだが、育てられないといった子どもも掃いて捨てるほどいた。
 まつもそうした哀れな赤児の一人だったのだろうと、見世の者たちは思い込んでいる。十四年前から春霧楼にいて、まつの拾われた当時を知っている者は、今では数えるほどしかいない。遊女たちを監督するやり手婆と春霧楼ではいちばんの古株になる番頭新造くらいのものだ。
 ちなみに番頭新造というのは、若い遊女たちの面倒を見る現役を引退した遊女だ。女盛りを過ぎて客を取らなくなった遊女の中には年季が明けても廓に残り、番頭新造ややり手になる女も少なくはない。廓を出たからといって、嫁ぐこともできず、要するに行き場がないからである。
 春霧楼のやり手にしろ番頭新造にしろ、長年、苛酷な苦界を生き抜いてきた女たちだ。それだけに、口は固い。ゆえに、彼女たちの口からまつの拾われた当時の経緯が語られることはなかった。
 まつは現在の境遇が自分の、いや、廓で生まれた子の宿命だと思っているから、格別、己れを卑下したことも悲観したこともなかった。ただ、運命なんてこんなものなのだと物心ついたときから思い込んでいた。
 ご亭(て)さんが亡くなってから、お義母さんはすっかり変わってしまった―。まつは、女将のおえんの変わり様がつくづく哀しい。
 元々、おえんは、今のようにぎすぎすした金の亡者ではなかった。確かに金勘定には煩かったものの、良人の宗佑(そうすけ)が生きていた頃は、まつにも優しい義母だったのだ。
 春霧楼の主人宗佑は〝亡八(ぼうはち)〟と呼ばれる女郎屋の主らしからぬ情のある人だった。亡八というのは、人として備えるべき八つの徳を忘れねば人身売買をする女郎屋の主は務まらぬ―ということから、この名で呼ばれる。
 遊女の扱いは酷いものだ。働かされるだけ働かされ、酷使した身体を損ねでもしようものなら、ろくに医者にも診せず放置される。それでも売れっ妓の花魁ならまだ療養くらいはさせて貰えるが、下っ端や売れない女郎であれば、そのまま布団部屋に押し込められ、後は死ぬのを待つばかりだ。
 そうやって無惨に死んでいった女郎たちを、まつはこの眼で幾人も眼にしてきた。とはいえ、春霧楼は他の廓と違って、主人の宗佑が存命であった時代は女郎たちにとっても極楽のようなものだったのだ。
 宗佑は先代の息子であったが、生来病弱で、しっかり者のおえんが見込まれて嫁いできた。おえんは舅や姑の期待に応えて見事に春霧楼を切り盛りしてきたが、この見世の女郎たちは損得勘定には長けたおえんよりも、穏和で優しい宗佑の方を慕っていた。女郎屋の女将が抱えた遊女に妬くというのもおかしな話だが、宗佑がなまじ男ぶりも良かっただけに、おえんの悋気は凄まじかった。
 まだ、まつが幼かった時分、宗佑に色目を使ったと当時、部屋持ちの売れっ妓だった春(はる)妙(たえ)という遊女が切り見世に売り飛ばされたこともあるほどだ。むろん、宗佑と春妙との間に何があったわけでもなく、客に無体な要求をされ泣いていた春妙を宗佑がそっと慰めてやっただけのことに、おえんが目くじらを立てたのである。
 宗佑はその頃、江戸で女たちの熱い視線を集めていた人気歌舞伎役者市川某によく似ており、切れ上がった眼許に男の色香がある―と吉原でも評判の男前だった。
 宗佑は見世のことはすべて任せ、直接、おえんのすることに口出しはしなかったものの、遊女たちの扱いはきちんと把握していた。少しでも酷い折檻をしようものなら、おえんを厳しく窘めたのだ。だから、春霧楼の女郎は他の見世の女郎からしきりに羨ましがられたのである。
 だが、まつが九歳の冬、宗佑は大量の血を吐いて亡くなった。その一年ほど前から労咳を患い、殆ど寝たっきりの暮らしだったものの、まさかそのように突然亡くなるとは誰もが想像さえしていなかった。
 宗佑の死を境に、おえんは変わった。遊女たちに見せていた優しさや情は欠片ほどもなくなり、養女のまつにまで辛く当たるようになった。宗佑が亡くなるまで、まつは〝おとっつぁん〟と呼んでいたのに、その死後は、おえんから〝捨て子のお前が主人(あるじ)を父親だと呼ぶのはおかしいんじゃないのかえ〟と言われ、〝ご亭さん〟と呼ぶように言われた。
 ちなみに、ご亭さんというのは、女郎屋の主人の呼び名である。また、おえんのこともそれまでは〝おっかさん〟と呼んでいたのに、〝お義母さん〟と呼ぶようになった。むろん、おえん自身の命によるものだ。
 〝おっかさん〟も〝お義母さん〟も同じよように聞こえるかもしれないが、女郎屋では両者は大きな違いを持つ。即ち、〝お義母さん〟は遊女たちが女将を呼ぶ呼び方なのだ。
 この頃から、まつに対するおえんの態度が微妙に変わり始めた。まつ自身もおかしいとは思っていたのだ。何となく、まつに隔てを置くようになっていったのである。
 そして、それは、ひと月前、はっきりとした形となって現れた。
 日本橋に〝扇屋〟というお店(たな)がある。その屋号のとおり、扇を主に扱う店で、殊に京から直に仕入れた扇子が雅だと風流人たちの間では有名であった。その扇屋の跡取り息子駿太郞がどこでいつ見初めたか、あろうことか、まつを気に入り、是非とも床を共にしたいと申し出てきたのだ。
 駿太郞には既に親の決めた、れきとした許嫁がいる。同業のお店の娘で、二年後に祝言と決まっている。今更、女郎屋の養女を由緒ある扇屋の嫁には迎えられぬゆえ、まつを囲い者―妾にしたいというのだ。幾ら何でも祝言を挙げる前から、跡取りに過ぎない身で妾を囲うわけにもゆかないから、とりあえずは女郎として見世に出し、水揚げをさせろと大枚を積んで頼み込んできたのである。