紗の心
雨の日が少ない梅雨の時期もいつしか過ぎ、陽射しはますます暑く照らし始めた。
仕事であの路地の辺りまで来ることがあったが、その人に会うことはなかった。
路地にさえ、迷い込むこともしなかった。
あの日、あのような形で別れたことは、私の中では大いにショックでもあった。
だが、まだ携帯電話に登録されたその人の電話番号は消せずにいた。
幾つもの登録のひとつにすぎないと、自分の中で削除しない理由を作って納得していた。
このところ、連続の夏日だ。
この季節の営業は冷えたり、暑かったりと体力的にもつらい。
時間の空きもあったが、公園の日陰に車を停めて、コンビニで買った冷茶を飲んでいた。
携帯電話が鳴った。
会社からだろうと、テロップで流れる相手も確認しないまま、電話に出た。
「はい、佐伯です」
一拍ほどの間があったが相手の声が耳に届いた。
「紗希です」
「あ、はい」
(え?)
「こんにちは。暑いですね。今、少しお話ししていいですか?」
「どうぞ」
一気に高まる気持ちを抑えるように私は答えた。
その人は、先日の(もうあの日といえるほど前の事だ)ことを謝った。
そして、また会いたいと言った。
私は、躊躇った。
会いたい気持ちは充分溜め込んでいる。
今、この場所からなら遠くはない。
すぐにでも抱きしめに行きたいのが本音だ。
私の決意など容易く粉砕した。
とりあえず、会う約束を交わした。
会う日が決まった。
その日が来る間、電話で話もした。
他愛もない話だ。
今日のおかずは何がいい?とか、何が食べたい?とか、といっても実際にふたりで
食べるわけではない。
単に食べたいものが見つからないといった程度だ。
蝉が玄関の前でひっくり返ってバタバタしていたなんて話も楽しかった。
何でも良かった。