すみれを摘んだ
”すみれ”は名乗った名の通り、花の好きな男だ。(これは他に名を知らないので嫌だけど、”すみれ”と呼ぶしかない)。男は花のことは詳しくもないし、細かいことには頓着しないようだが、花というもの全般が好きなようだった。
ある日、すみれは大量の草花を摘んで持ち帰ってきた。それはもう両手いっぱいに。私はあっけにとられた後、すごくうんざりした。そしてよくその花たちを見てみると、すべてその辺に咲いている名前も知らないような雑草や野の花たちだった。さすがに人様の庭の立派な花などを摘んでこなかったことに安堵するやらなにやら。
すみれは色とりどりのその小さな草花たちを、テーブルの上に無造作に撒いた。私はぼんやりとその様子を眺めながら、この花たちはもう死んでしまうんだなと思った。
この男は何を思っているのだろう。花に水をやる訳でもなく、愛でる訳でもなく、ただ摘んでくる。無邪気で残酷な子供の遊びのようだ。子供の方がもっと意味のない純粋さを持っている。意味なんてない本能の行為は、無垢と呼ぶのかもしれない。
「可愛いだろう」
すみれは自慢げに言った。私は冷めた目線を男に送る。男は私の冷たい目なんて気にも留めないで、花たちを眺めて喜んでいる。満足げに微笑んでいた。
「綺麗、だろう」
すみれはまた言った。私はだんだん虚しさや、憤りや、泣きたいような冷えた気持ちが溢れてきてどうしようもなくなった。冷たい気持ちが渦になってくすぶって、心と体の中で腐っていくみたいだ。
私は何も言えず、動くこともできず、ただその花々をじっと睨むように見つめ続ける。なんだかもう何も感じたくなかった。すべてを拒否したい。
そうやって自分の思考の世界に沈んでいると、突然何かが耳のあたり触れた。私は驚いてはっと顔を上げる。すると、男が私の顔の横に手をかざしていた。何かと思いそっと耳の上に触れてみると、どうやら花が飾られているらしかった。この摘まれたひとつの雑草が。
私はとっさに反応できずに、ただぼうっと立ち尽くす。鏡を見なくてもきっと私は間抜けな顔をしているんだろうと思う。そして、この花は私には決して似合わない。私はそんなんじゃないんだ…。
「良く似合う」
すみれは笑って言った。その笑顔は儚くて、なぜか私の目には眩しく映る。私はその白い眩しさに涙がにじんでしまうんだ。決してこぼすまいと願ったのに、涙がひとすじ流れた。
すみれは相変わらず時が止まったように同じ笑顔を浮かべている。すべてが忘れられたみたいで、それは失われた一枚の写真のようだなと思った。すみれは現実感がない。私にとってはただの夢だ。
私は涙の跡を頬に残したまま、もう一度テーブルの上のたくさんの花を見た。色とりどりの花々はそれでも確かにそこにいて、死のうが生きようがその命を存在させている。これが綺麗なのか、私にはやはり分からない。ただの生き物じゃないか。
私は日の差す窓辺の方に目をやった。光は穏やかで眩しくて、とても安らぐ。私もまた生き物だから光と水がないと生きられないのだろうと思う。暗闇の中で水を与えられなければ、干からびて死んでいくしかない。いくら日を厭おうが、水を吐き出そうが、私は光と水でできている。それは逃れられない現実だ。
私はテーブルの方へ手を伸ばすと一輪の花を取った。何の変哲もない白い小さな花。
その花を男の髪に飾ってやろうとして、やめる。そのまま嫌がらせのように男の口元へ花を持っていく。男の顔の前へふらり、ひらり、花をちらつかせてやった。すみれは無表情で花を眺める。私は何となく先ほどまでの鬱屈した感情が薄れて、すみれの行動をおかしな気持ちで待つことができた。
すみれは私の持つ花のちぎられた茎の方を食べた。というか、口でくわえた。私はぽかんとして、そして可笑しくなった。あはは、と笑いだす。やっぱりすみれはすみれだ。この男は馬鹿だ。ああ、おかしいおかしい。
花をくわえたすみれはきょとんとした表情をしてこちらを見ていた。やはりその顔が間抜けで、私はなんだか満たされる。花なんてそんなもんでいいんだよ。手折って、飾って、愛することもなく食べてしまおう。枯れたら捨てたらいいんだよ。
……ひとしきり笑ったらなんだか疲れた。
私は自分の髪にまだ花が飾られていることを思い出して、それをはずそうと手を耳にやる。けれど、それは男の手によって阻まれた。すみれは私の手首を思いのほか強い力でつかんだ。私は驚いてすみれを見る。すみれは口にしていた花を、ゆっくりと唇を開いて落とした。あっけなく花は床に落ちた。音もなく。
すみれは私の目をじっと見ていた。その視線はとても強くて私は困惑する。その意味を、すみれの心を知ることは私には不可能だ。いや、知ろうとすることから逃げているのかもしれない。
だって、あなたは私が「好き」なんでしょう? 好きかもわからない癖に「好き」なんでしょう。
私はその強い視線から逃れるように、床に落ちた一輪の花をただ見つめていた。
そのうちなんだか力が抜けてきて、床にぺたりと座り込んだ。なんだかとても疲れた。もう立っているのも、考えるのも、生きているのもくたびれる。なんだか意識があやふやになって眠りのような心地になる。私はそのまま瞳を閉じた。
手は男に掴まれたまま。
けれど、それがあまりに馴染んでしまったら、次第に皮膚や肉や骨の感覚と違和感なんて忘れて、私の手と男の手の境界何て消えてしまう。人なんてそんな曖昧なものだ。いいや、私が曖昧なのか。
私はうつらうつらと、夢現の心地の中をたゆたう。
手はつかまれたまま。
振り払うこともしない。
そして、掴まれたことすら分からなくなる。
髪には花一輪。