橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~・弐
お須万が頑なに秘密を死守しようとも、清七だけは真実を知っている。
お須万の生んだ子は紛れもなく清七の血を引く娘だ。
―確か、名はお千寿(ちず)とかいったよな。
清七はゴロリとすり切れた畳に転がり、染みのある汚れた天井を見るともなしに眺めながら、まだ抱いたことはおろか、顔さえ見たことのない娘を思った。
父親である自分がこの腕に抱いたことすらないというのに、あの男はお千寿を、父親としてその腕に抱くことが許されるのか!
お千寿の父親がそも誰であるか―、そのことは世間的には公にされてはいない。父親の知れぬ子、いわゆる父(てて)なし子を生んだこと自体、この美貌の謎に包まれた女未亡人を更に神秘的な近寄りがたいものにしている。
本来なら、父親の判らぬ、どこの誰とも判らぬ男の子を生むことは、女の身には醜聞になるはずだ。しかし、この美しい伊勢屋の女主人は、そのスキャンダルさえ逆手に取り(恐らく、彼女自身は普通なら、その到底、世間には受け容れては貰えぬ既成事実を武器にする気はないのだろうが)、伊勢屋の名を広めることに、自分の存在をより謎めいたものにすることに成功している。
が、たとえ誰がどう言おうと、お千寿の父親はこの自分だ。その秘密はむろん他人に喋るつもりもなく、清七は己(おの)が生命の絶えるまで守り通す覚悟である。
そして、恐らく、そのけして世に知られてはならぬ秘密を知るのは、当事者であるお須万とそれに清七―、もしかしたら、あの(嘉)男(一)もお千寿の父親が誰であるのか既に知っているのかもしれない。
それにしても、実の父親である清七さえその手に抱(いだ)くことが叶わぬというのに、どうして、あの男にはそれがいとも容易く許されるというのだろう。
一年前に見た嘉一のあのまなざしが再び脳裡をよぎった。清七をまるで蔑むかのような、見下すかのような、はるか高みから見下ろしていた男。あの男だけは許せない、と思った。
お須万の新しい亭主になるだけというのであれば、別に構いはしないが、我が娘お千寿の父親になる―そのことだけは絶対に認められないと思った。
そう考えると、もう矢も楯もたまらなくなり、清七は起き上がっていた。
長屋を出て、いかほどの刻が経ったのか。気が付けば、清七はその腕に赤児を抱いて走っていた。見憶えのある長屋の前まで来ると流石に気が緩み、ホッとして脚取りもゆっくりとしたものになる。清七は自分の家の腰高(こし)障子(だか)を開けると、さっと中に身を滑らせた。
随明寺から走りに走ってきたゆえ、脚の速さには少しは自信のある清七も荒い呼吸をしていた。
赤児をそっと畳に寝かせると、清七は三和土に降り、水瓶から柄杓で水を掬い、夢中で呑んだ。ひと心地つくと、再び畳に上がり、そろそろと赤児に近づく。
生後三ヵ月を迎えたばかりの赤児は紅い着物にくるまれて、無心な寝顔を見せていた。色白の整った眼鼻立ちはお須万に似ているようでもあり、自分に似ているようでもある。紅地に千羽鶴を織り出した着物は上物で、流石は江戸でも指折りの大店、しかも呉服問屋の娘だけはある。
清七は慣れた手つきで赤児を抱き上げた。赤児をこの腕に抱くのはかれこれ四年ぶりにはなるけれど、昔取った杵柄で、おみのとの間に生まれた太助をよくこうやって抱いて、あやしたものだった。
赤児特有のやわらかな温もりに触れた途端、清七の胸に熱いものが込み上げた。
清七はそっと眠っている赤児の頬に触れてみる。紅い熟れた林檎のような頬に、ひとしずくの涙が落ちた。
―お千寿、俺がお前の父ちゃんだぜ。お前は器量良しだから、大勢の男にモテるんだろうな。お前が大きくなっても、父ちゃんは、お前をこうしてこの腕に抱いたことを忘れねえぞ。
眠っている赤児にそっと呼びかける。
―赤児を奪うのは簡単なことだった。
清七はお千寿が天気の良い日は乳母に連れられて随明寺に散歩にゆくことを知っている。随明寺の墓地には亡きおみのや太助が眠っており、数日に一度は墓参にゆくのを日課にしていたからだ。
その際、たまたま乳母に連れられてきていたお千寿を遠くから見かけ、顔見知りの寺男に訊ねたところ、四、五日に一度は伊勢屋の生まれたばかりの娘が乳人に連れられてやってくるとの情報を掴んだのである。贅沢な産着を着せられた赤児は、ひとめで裕福な家の子だと知れた。
随明寺の境内は広大で、三重ノ塔を初め、金堂、絵馬堂、奥ノ院などの諸伽藍が点在している。中でも最奥部に当たる奥ノ院は開基の浄徳大和尚を祀り、その傍らにひっそりと横たわる大池(おおいけ)のほとりには桜並木が数本立ち並んでいた。桜のこの季節には一斉に薄紅色の花が開き、それはもう見事なものである。
殊にこの大池周辺は人気もなく、昼間でも深閑として静謐な空気に包まれている。お千寿を攫(さら)うなら、この辺りしかないと踏んでいた清七は、乳母がお千寿を連れて桜の樹の下まで来た時、猛然と走っていった勢いで乳母に体当たりした。
仰天した乳母が茫然自失の体になっている隙に、腕の中のお千寿を強引に奪い、また、来たときと同様に一目散に走って逃げた。お千寿を奪われた乳母は〝かどわかし、人攫い!〟と懸命に叫んでいたが、いかにせん、周囲には人気は全くなく、すぐに助けにくる者はいなかった。
清七はそのまま、お千寿を長屋に連れ帰った。それが、つい一刻余りほど前のことになる。途中、斜向かいの大工の女房とすれ違った以外、人に逢うことはなかったのは幸いであったといえよう。
その女房は明らかに不審げな眼でじろじろと赤児を抱いた清七を見ていた。それも道理で、女房もおらぬ寡夫(やもめ)暮らしの男が突如として赤児を抱いて歩いているのを見かければ、面妖に思われても致し方ない。
清七は、なおもお千寿の寝顔を見つめていた。そろそろ、行かなければならない。清七は名残を惜しむかのように更に赤児を見つめ、ゆるりと立ち上がった。お千寿を攫ってからすぐ、清七は同じ長屋に住む桶職人の九つになる伜に小遣いを握らせ、伊勢屋まで遣いを頼んだ。
―子どもを返して欲しければ、橋のたもとまで引き取りに一人で来い。
短い手紙を小さく折り畳んだものを必ず町人町の伊勢屋の内儀当人に手渡すようにと言った。
今頃、伊勢屋では大騒ぎになっていることだろう。随明寺でお千寿を攫われた乳母が伊勢屋に帰り着き、事の次第を報告したところに手紙が届き、はては身の代金目当ての誘拐かと店中が蜂の巣をつついたような騒動になっているに相違ない。
文遣いを頼んだ子どもには、文を渡すだけ渡したら、すぐにその場を離れるようにと言い含めてある。子どもの口から清七の身許が露見する怖れはないだろう。
別に何を、どうするつもりもない。もちろん、身の代金なぞ要求する気もない。
第一、自分の娘を父親がかどわかして、そのかたに金を要求して何になるというのだ。それこそ、とんだ茶番だ。
清七はお千寿をそっと抱き上げると、そのふっくらとした頬に自らのそれを押し当てた。
―たった一刻ほどの間だったけど、父ちゃんはお前と一緒にいられて嬉しかったぜ、お千寿。
恐らく、これが娘と共に過ごす最初で最後の時間になるに相違なかった。
作品名:橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~・弐 作家名:東 めぐみ