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橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~・弐

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 この娘(こ)を、俺がこの腕に抱くことは二度とない。そう思うと、純粋に赤児を手放したくないという欲求に駆られた。
 だが、この娘は手放さなければならぬ子であった。清七という、その存在さえ認められぬ男を父親に持つ子だと世間に知られてはならないのだ。多分、伊勢屋の娘として育つことこそが、この赤児の幸せなのだろう。それを厭というほど承知していながら、自分は何故、こんな途方もないことをしでかしたのか。
 やはり、あの女と我が子をこの手に取り戻したかったのか。
 嘉一だけは、この子の父親として認めるわけにはゆかない。そう思ったのが、事の発端であったことは憶えている。だからといって、お千寿を攫ったからといって、事態は何も変わるわけではないのに。
―いっそのこと、この子とお須万を道連れに親子三人で無理心中とでもいくか。
 ちらりとそんな怖ろしい考えが脳裡をよぎり、清七はまたしても己れがほの昏(くら)い底なしの闇へと引きずり込まれようとしていることに気付き、ハッと我に返った。何という怖ろしいことを自分は考えるのだろうか。
 かつてお須万を殺し、自分も共に死のうとまで思いつめたことがある清七だけに、今また、己れが以前と同じことを考えていることを改めて知り、あまりの罪深さ、怖ろしさに身をおののかせた。
 その時。腕の中で小さな声が聞こえ、清七はハッとした。つぶらな双つの瞳で一心に自分を見上げる無垢なまなざし。
 この眼は、いつかどこかで見たような気がする。そう考えている中に、ふっとある情景が鮮やかに甦った。
 丁度一年前のこの時季、橋のたもとでお須万とめぐり逢った。月の美しい春の夜、自分をひとめで魅了した女、その女が清七の腕の中からこんな眼をして自分を見つめてきたのではなかったか。
 あの瞬間、お須万は清七を亡くした良人だと信じ込んでいた。ゆえに、けして清七という人間を見ていたわけではなかったのだけれど。それでも信頼に溢れた一途なまなざしで清七を見上げ、縋りついてきた女を、清七は心底から愛しいと思ったのだ。あの瞬間を、お須万と出逢った運命をけして後悔はしない。
 清七は、しばらく小さな娘と見つめ合った。それは、時間にしてはほんのわずかなものだったろう。だが、清七には途方もなく長く思えた至福のひとときになった。
 と、腕の中の小さな娘がニコリと笑(え)んだのだ―。まだ歯も生えておらぬ小さな口許を綻ばせ、にっこりと。
 そのあまりに愛くるしい笑顔に、清七の眼に、また、涙が溢れた。
 お千寿を抱いて外に出ると、春のやわらかな風がそっと吹き抜けていった。穏やかな陽が真っすぐに道に差し込んでいる。
 長屋の木戸口を抜け、しばらく歩くと、慣れた光景が見えてきた。幾度となく通った道、一年前のあの夜、お須万と出逢ったあの場所。
 今日も川は変わらず流れている。橋のたもとには、枝垂れ桜が薄紅色の清々しい花を満開に咲かせていた。
 時折吹く風に、花びらが舞い上がり、水面に落ちる。無数の花びらを浮かべた川面が陽光を受けて、きらめいていた。
 夢のような、穏
やかな春の光景だ。
あの夜―お須万とめ
ぐり逢った日と同じ
ように、菜の花の黄
色が優しく風に揺れ
ていた。
 清七は和泉橋のたもとまでゆくと、枝垂れ桜の下にそっと赤児を置いた。
 赤児を置いて清七が物陰に身を隠したまさにその時、町人町の方から二人の人影がもつれ合うようにあい前後して近づいてきた。
 清七はその一部始終を老中の松平さまのお屋敷―立派なお屋敷をぐるりと取り囲む塀際に設置されている天水桶の後ろに身を潜めて見守っていた。
 二つの人影は男と女―、言わずと知れた伊勢屋お須万、そして愕いたことに男の方は六月にはお須万と祝言を挙げて正式な夫婦(めおと)となるはずの番頭嘉一であった。
 更に愕いたのは、嘉一の方がお須万より先に橋のたもとに辿り着き、桜の樹の下に置かれていたお千寿を抱き上げたことである。
 嘉一は赤児を見つけると、まろぶように走り、その腕に抱き上げた。
「お千寿お嬢さま―、ご無事で。良かった、本当に良かった」
 知らぬ者が見れば、お千寿を抱いて頬ずりする嘉一は、間違いなくお千寿の真の父親だと思っただろう。嘉一はお千寿の頬に頬ずりして、落涙していた。
 一方、嘉一よりやや遅れて走ってきたお須万は半狂乱であった。髪を振り乱し、美しい面を涙でぐしゃぐしゃにして号泣している。
 お須万は嘉一から赤児を抱き取ると、いっそう声を上げて泣いた。
―もしかしたら、俺は、これが見たかったのかもしれねえな。
 伊勢屋の先代主人の眼は、確かに間違ってはいなかった。
 嘉一は情も分別も備えた男だ。この男になら、お須万だけではなく、お千寿をも任せられる。
 赤児お千寿を囲んで寄り添い合う嘉一とお須万は、どこから見てももう似合いの夫婦に見えた。
 どこからともなく春の風が吹き、水面を渡る。一陣の風が桜の梢を揺らし、また、薄紅色の花びらが雪のように舞った。
 まさに、夢の中の光景のようだ。
 そう、夢はいつか醒めるときがくる。
 一年前、清七がこの場所で見たのは、束の間の美しくも哀しい夢だった。
 清七は、いつまでも寄り添い合うひと組の家族を背後に、そっと踵を返した。
                  (了)