橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~・弐
お須万は静かな声音で言うと、片手をついて緩慢な動作で立ち上がる。傍らの大きな荷物を拾い上げようとして思わずよろめくのを、〝危ねえッ〟と清七が傍から支えた。
「大丈夫か? その―余計なお節介だろうが、身重なんだから、そんな大きな荷を一人で持つのは止した方が良いんじゃねえのか。これからますます腹もでかくなるんだから、気をつけなよ」
清七がいつまでも手を放そうとしないので、お須万が身を固くした。
そのことに気付き、清七は慌ててお須万の身体から離れた。
「本当に申し訳ありませんでした」
お須万はもう一度、深々と頭を下げた。その眼に大粒の涙が溢れているのを認め、清七は狼狽する。
「泣かないでくれ。俺はできることなら、お前さんを泣かせたくはねえんだ。お前さんの泣き顔を見ていると、俺まで辛くなっちまって、どうしたら良いのか判らなくなるんだ。安心してくれて良い、俺は先にも言ったように、本当にお前をあのことで脅迫しようとか、そんなことを考えてるわけじゃない。身体には十分気をつけて、元気なややを生んでくれ」
振り絞るような言葉に、お須万が小さく頷いた。清七が拾い集めた銭を戻した巾着を手渡すと、うなだれて受け取る。もう一度会釈をして、清七に背を向けると急ぎ足で立ち去ってゆく。足早に歩み去るその姿は明らかに清七から一刻も早く逃れようとするかのようだった。
―そんなに急いじゃア、転んじまうぜ。
思わずそう声をかけたい衝動に駆られ、清七はすんでのところで、そのひと言を呑み下す。
言えなかった科白は苦い塊となり、清七の心の奥底深くへと沈み込んでいった。
結局、清七の想いは届かなかった。否、確かに彼の気持ちそのものはお須万に伝わったには違いないだろうが、お須万が彼に対して心を開くことは最後までなかった。
お須万にとって、清七は半年前から今も変わらず、名も知らぬ〝あなた〟であった。
お須万が夜の町をさまよっていたのは、亭主や子をたて続けに喪った哀しみのあまりであった。その頃は正気を手放していたには相違ないが、素顔のお須万という女は極めて良識的であり貞操観念もしっかりとしているようだ。
恐らく、あのような不幸に見舞われなければ、一人で深夜、町を徘徊するようなこともなかったろう。そんな女にとってみれば、現ならぬ世界にさ迷いこんでいた時期に、ゆきずりで一夜を共にした清七なぞ本当にただ忘れたいだけの男だとしても何の不思議もない。
いや、むしろ、清七の顔を見る度に、忌まわしくも汚辱に満ちた記憶が甦り、いっそのこと清七と共に過ごしたあの一夜だけではなく、清七という男そのものすら消してしまいたいと思っているだろう。
お須万がその気性ゆえに、清七に対して申し訳ないという想いを抱いていることは、清七にも判った。
だが、百の詫びの言葉をくれるよりも、清七にとってはお須万がたった一度でも清七を一人の人間として見てくれた方が良かった。眼の前にいるのに、あたかも物でも見るか、さもなければ、化けものでも見るような怯えた眼で見られたくはなかったのだ。
―あの女にとって、俺は最後まで存在しちゃならない、眼の前にいても、いると思いたくねえ人間だったんだな。
〝男〟として見られなくても良いから、ただ一人の人間としてお須万に認められたかった。清七はそう叫びたい想いをこらえ、肩を落として歩き始めた。
いつしか周囲は薄墨を溶き流したような宵闇が立ち込め、橋のほとりの桜の樹の下にも淡い闇が忍び寄ろうとしている。秋になって紅く色づいた葉は、直にすべて散り寒々とした裸木となって寒く長い冬を過ごすのだ。
清七は悄然としてお須万が向かった町人町とは逆方向に向けて歩いてゆく。それは、どんなことがあっても、けして交わることのない二人の縁(えにし)の糸―人生にも似ていた。
今夜だけは、灯りもない真っ暗な我が家に帰る気にはなれなかった。武家屋敷町を抜けた外れには黄檗宗の名刹随明寺がある。その門前道の両脇には色宿や連れ込み宿が建ち並び、昼間とてなお人通りもなく一種独特の淫猥な雰囲気を醸し出している。
あの辺りまでゆけば、男に色を売ることを生業とする夜鷹(街娼)の一人や二人はいるはずだ。夜鷹とは、岡場所や遊廓で客を取る女郎とは異なり、夜な夜な町の辻に立ち、男の袖を引いては自分の家に引っ張り込んで身体を売る女だ。
ひどいときは物陰でそそくさと事を済ませるときさえあり、大抵は花の盛りを過ぎ、遊廓では客に見向きもされなくなった年増の女であることが多い。それでも遊廓に登楼して揚げ代を払うよりは格段に安くつくため、若い職人や人足といった稼ぎの乏しい男の中には夜鷹を買う者もいた。
今夜は、久々に女の身体に溺れて、すべてを忘れたい―、清七は暗澹たる気分で月もない夜道を歩いていった。
《其の参》
清七がその噂を耳にしたのは、ほんの偶然にすぎなかった。それは、あろうことか、町人町の目抜き通りに店を構える錚々たる大店の中でも殊に名の知られた大店〝伊勢屋〟の未亡人が二度めの聟を迎えるというものだった。
伊勢屋のお内儀(かみ)は今年二十一になり、先代の一人娘で一度、聟を取ったが、三年後に死に別れている。娘時分から〝小町〟と謳われるほどの佳人で、現在もなお求婚者がひきもきらないのは何もあながち、言い寄る男どもが大店伊勢屋の身代だけが目当てではなく、未亡人はそれほどに男心をそそる色香溢れる美貌であった。
それも触れなば落ちんといった、人眼に立つ色気ではなくて、可憐な面立ちであるにも拘わらず、どこか妖しい魔力のような、そこはかとなき色香を秘めている。美しき花に潜む毒に惹かれてくる蝶のごとく、あまたの男がその未亡人の魅力の虜になるとさえ、いわれていた。
とにもかくにも、その評判の美人内儀が前の亭主を病で失って以来二年、ついに二度目の聟を迎えるというので、そのことは何と瓦版にまで載るほど世間を賑わすことになった。
「さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。何と、あの町人町の呉服太物問屋伊勢屋の美人内儀がついに年貢の納めどきと来た!! 前の亭主とは他人(ひと)も羨むほど評判の仲睦まじさだったと聞くが、さて、亭主が亡くなって丸二年、この美人内儀の心を動かした男はついぞ一人もいなかったというのに、ここにきて、その氷のような女心を溶かした男が出現したよ。美人で評判の内儀と伊勢屋の身代の両方を一度に手に入れる実に幸運なその男は、伊勢屋で長年番頭を務め上げてきた嘉一という男だ。内儀よりは三つ年上の二十四、これがまた、なかなかの良い男だが、滅法お堅くて上に何とかがつくほどの忠義者、これまで女には見向きもしなかったような男だというじゃねェか。さて、一体、どうして突然、この真面目一途な番頭と評判の美人内儀の仲が訳ありにまで発展したのか。その深~え経緯(いきさつ)を知りたけりゃア、一枚、買った、買った!!」
町人町の四ツ辻で大声を上げていた瓦版売りから一枚買い求め、清七は長屋に帰り着いてから貪るようにその記事を読んだ。くしゃくしゃにして懐にねじ込んでいた瓦版をひろげるのさえもどかしく、震える手でひろげ、最初からしまいまで一文字一文字洩らさずにすべて読んだ。
作品名:橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~・弐 作家名:東 めぐみ