橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~・弐
ほんの一瞬手にしただけでも、その巾着はずっしりと持ち重りがした。相当の銭が入っているであろうことは容易に想像がついた。
だが。清七の胸の中では烈しい怒りとやるせなさが渦巻いていた。
「ふざけるなッ」
清七は凄まじい怒りに囚われ、怒鳴った。
たとえ他の男の身代わりにされたのだとしても、構わないと思った。恋に落ちたのも惚れたのも自分の方だった。
だから、この恋が片想いに終わるしかないものだとしても、仕方ないと潔く諦めるだけの覚悟は持っているつもりだった。なのに。
この女は清七のそんな哀しい想いさえ、土足で踏みにじるというのか!
「お前は俺がそんな男だと思っていたのか! 金さえ与えて黙らせておけば、てっとり早く後くされなく相手にできるような、そんな類の男だと」
あまりの屈辱と怒りに、清七は眼前が真っ白になるようだった。
「俺はお前とのことを金で片をつけようなんて、思っちゃあいねえよ」
吐き捨てるように言った清七を、お須万は怯えを宿した眼で見上げた。
「それでは、どうすれば納得して貰えるのでしょうか。あなたの気の済むように何なりとお詫びはさせて頂きます」
「だから、そんなことを言ってるんじゃアねえッ」
清七の烈しい声に、お須万が身を戦慄かせた。
「なあ、お須万さん。俺と所帯を持っちゃくれねえか。あんたとその腹の赤ン坊と三人で、新しい家族を作らないか」
突如として思いもかけぬことを言い出した清七の顔を、お須万は眼を見開いて見つめている。その顔には、確かに困惑の色が浮かんでいた。
「一体、それはどういう―?」
心もち優しくなった清七に、お須万は警戒心を露わにした顔で問うた。
「おっと、勘違いして貰っちゃ、困るぜ。何も俺は伊勢屋の聟養子に納まって大店の旦那になりてえだなんて思っちゃいねえからな。お須万さん、俺はお前に俺のところに嫁に来て欲しいんだ。そりゃア、お前の方も店のこととか商いのこととか色々とあるだろうから、すぐにすぐってわけにはゆかないだろうが、そうだな、赤ン坊が生まれるまでには遅くともちゃんと祝言を挙げて、二人だけで暮らせるようにできたら良いと思ってる」
「―止めて!!」
滔々と自分の夢を語る清七に向かって、お須万は半狂乱になって叫んだ。
「子どものことは、あなたには拘わりのないことだわ。私はあなたと所帯を持つ気もないし、この子の父親があなただってことも認めるつもりはありません。妙なことを言わないで下さい」
「妙なこと? 自分の血を分けたガキと一緒に暮らしてえと思うのが、そんなに妙なことだと、お前はそう言うのか、お須万さんよ」
醒めた声で問い返してくる男を、お須万は魔物でも見るかのような怯えた眼で見つめた。
「お願い、どうかあの夜のことは忘れて下さい。あなたに子どもの父親になってくれとも、面倒を見てくれとも、夫婦になって欲しいとも言わないから、お願いだから、今後一切私たちに拘わらないで」
この女は完全に清七を自分の世界から切り離そうとしている。否、出逢ったそのときから、この女の心に清七の居場所はかけらほどもなかった。そのことは共に過ごした夜から半月後、料亭〝みやこ〟から信濃屋と出てきたお須万と再会したあの日、既に判り切っていたことではないか。
あの時、お須万は確かに清七を無視したのだ。端から眼にも入らぬもののように清七を扱い、彼女の住む世界にはいない者としてふるまった。
そう、この女にとって、清七はけして存在してはならぬ男なのだ。
恐らく、この女にしてみれば、清七が彼女の暮らす世界に存在し、呼吸をすることさえ厭わしく、疎ましいものに思えるに相違ない。
ここまで惚れ抜き、心奪われた女に嫌われたかと思えば、流石にやるせなかった。清七はお須万に対して初めから何の見返りも期待してはいなかった。ただ、彼女のいる世界の片隅でひっそりと生きて、お須万の姿を遠くから眺めていられれば、それで十分であったのに。
お須万は、そんなささやかでちっぽけな清七の望みさえ厭わしいものに思い、拒むというのか。
惚れた女に、しかも自分の子を宿した女に、その存在そのものを抹消してしまいたいと願うほど疎まれ嫌われている―。
そう思うことが、清七の心を常にはなく凶暴に、残酷なものに駆り立てていた。自分でも予期せぬことに、清七の口からは尖った言葉が次々に溢れ出てくる。それは、他ならぬお須万への烈しい恋情の裏返しでもあった。
清七は自分でも荒れ狂う心をどうにも鎮めることができず、怒りに任せて心ない言葉のつぶてを繰り出した。
「そりゃあ、あんたにはその日を暮らしてゆけるかどうかってえ生活の不安もねえ。ただ黙って座ってるだけで大勢の奉公人どもが何でもやってくれる結構な身分だ。何しろ、押しも押されぬ大店のお内儀(かみ)さんだからな。だが、その陰で虫も殺さねえような澄ました貞女面して、夜毎町をうろついて好きでもねえ男に身を任せる売女(ばいた)、淫売じゃねえか。あの世でさぞかしあんたの恋しい亭主とやらも泣いてることだろうよ」
お須万の顔に烈しい驚愕がよぎる。黒い大きな瞳を零れんばかりに瞠り、お須万は凍りついたように動かなかった。
先ほどよりも更に気まずい沈黙が満ち、清七は己れの発した言葉が想像以上に女を打ちのめしたことを知った。
「酷い―」
お須万は唇を噛みしめると、うつむいた。
華奢な肩がかすかに揺れている。女が泣くまいと必死に耐えているのが判った。
お須万にも矜持というものがある。好きでもない男に真正面でここまで悪し様に罵られては、そんな男の前で涙ひと粒だとて見せたくはないだろう。
また、沈黙。
「―そう、ですよね。私のしたことは、あなたにそう言われても仕方のない蔑まれるべきものですもの」
意外にも、今度は沈黙を先に破ったのはお須万の方だった。
お須万は存外にしっかりとした口調で言った。
しかし、清七はその時、確かに見た。
お須万の白い頬をひとすじの涙が流れ落ちてゆくのを。
「済まねえ」
ややあって、清七はポツリと呟いた。
惚れた女を泣かせてしまったことが、強い悔恨の念を呼び起こしていた。小さく息を吸い込み、清七は続けた。
「お須万さん、これだけは言っておくが、俺はお前の不幸を願ったことなど一度もない。たとえ、あんたが俺という人間を見てくれていなかったとしても、あんたの失(な)くしちまった亭主の代わりにされているのだとしても、俺は十分満足だった。俺にも昔は人並に女房や子どもがいたんだが、三年前に二人共亡くなった。女房と子どもを失くしてから、俺はもう二度と人を愛せない、誰かを想うことなんぞあり得ないと思ってきた。でも、お前と出逢って、俺はまた、自分が人を愛せることを知った。―俺はたったそれだけで十分だった。あんたにとっちゃア、半年前のあの一夜はできればさっさと忘れちまいたい過去に違えねえだろうけど、俺にとっては忘れられねえ、幸せな夜だったのさ」
お須万はしばし、何かに耐えるような眼で清七を見つめていた。
静かな、物哀しい刻がゆっくりと相対する二人を包み込んで流れてゆく。
「私は本当にあなたに対して取り返しのつかない過ちをしてしまったのですね」
作品名:橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~・弐 作家名:東 めぐみ