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橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~・弐

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 お須万の眼から大粒の涙が溢れ、頬をつたった。
「今更、こんなことを申し上げても、言い訳にしかならないことは判っていますが」
 お須万は気丈にも涙をぬぐうと、訥々と語り始めた。それは清七にとってはあまり聞きたくはない話ではあったけれど―、お須万が彼女なりに誠意を尽くしてすべての真実を話そうとしているのが判った。
 彼女の決意が伝わってきたからこそ、耳を傾けないわけにはゆかず、また、お須万を愛した男として知っておかねばならない話でもあった。
「既にあなたもご存じかとは思いますが、私は町人町で呉服問屋を営む伊勢屋の内儀(おかみ)です。二年前に良人に先立たれてからは、私が亡き主(あるじ)になりかわり、微力ながら店の暖簾を守ることに力を尽くして参りました。亭主が病で亡くなる半年前には、たった一人の子どもを同じ病で亡くしました。子どもに続いて頼りにしていた良人にまで先立たれ、本当に私はあれからどうかしてしまっていたのです」
 先刻から、お須万が〝自分がどうかしていたのだ〟と繰り返している。正気を失った状態であったからこそ、亭主と自分を間違えて、抱いて欲しいとお須万が縋ってきたのだという事実を殊更突きつけられるようで、清七は辛かった。
 たとえ他の男の代わりでも良いと思ってはいても、清七もやはり男だ、惚れた女の口から、その苛酷な現実を知らされるのは耐えがたいことであった。
 お須万は清七の波立つ心を知ってか知らずか、伏し目がちにか細い声で続ける。
「亡くなった時、子どもはまだ八ヵ月の乳呑み児でした。親馬鹿なようですが、可愛い盛りで、私が少しでも傍を離れると後を追って這ってきて泣いたものです。伜が亡くなってからというもの、私は夜毎にどこかから赤ン坊の泣き声が聞こえてくるようになりました。この江戸の町のどこかで、あの子が、慎太郎が私を探して泣いている―、早く慎太郎を見つけ出して抱きしめてやらなければと思い、夢中で家を飛び出すのです。そんな私に、良人はいつも一緒に付き合ってくれました。元々、身体の丈夫でない良人が質の悪い風邪を引いてしまったのも、夜中、町をさまよい歩く私と共に外に長い時間いたのが良くなかったのです」
―もうそろそろ帰ろう、な?
 慎之助はお須万の気が済むまで町中を一緒に歩き、最後はいつもそう言って優しく妻を諭した。
 お須万も素直に頷き、良人に手を引かれて家に戻る。毎夜、そんなことの繰り返しだった。時には慎太郎の姿を求めて、探し疲れたお須万を背負い、東の空が白み始める頃に漸く帰ってくる日さえあった。
 それでも、慎之助は何も言わず、お須万に付き添った。慎之助が倒れたのは、寒い冬の夜にお須万と共に町を歩いて風邪を引いたのがきっかけであった。
「―」
 清七は言葉を失った。
 お須万の話から、今初めて明らかになった真実があった。
 亡くした赤児の泣き声が聞こえると夜通し町をさまよい歩く女房と、その女房の身を案じて、ずっと一緒に町を歩いてやる良人。そこには愛盛りの伜を突如として失った若い夫婦の哀しい姿があった。
 そして、その慎之助とお須万夫婦が背負った悲嘆は、かつておみのと太助をあいついで失くした清七自身の味わった哀しみでもあった。
 奇しくも、お須万と清七は同じ宿命(さだめ)を背負った者同士であったのだ! 清七の恋は、子を失った女と同じく子を失った男が出逢うことから始まった恋だった―。
「良人が子どもの後を追うように亡くなっても、私の夜歩きはずっと続きました。いえ、良人まで失ってから、今度は、私は良人と子ども二人の姿を探し求めて夜の町をさまよい歩くようになったのです。私にとって、良人と子どもは唯一、家族と呼べる存在でした。その大切な人たちを失い、私は狂っていたのだと思います。淋しさと絶望の挙げ句、平常心を失い、狂人となり果て夜毎、町をさまよっていました。亭主が亡くなってから、私が夜通し町をふらついていることを知る者はいません。恐らく、店の者たちも私が半ば狂人のようになっていたのは知らぬことでしょう。―そんな時、あなたに和泉橋のたもとでお逢いしました」
 〝許して下さい〟と、お須万は消え入るような声で言って、その場に両手をついた。
「どのようないきさつがあるにせよ、私がしたことは、人間として絶対にしてはならないことです。良人や子を失ったからといって、その哀しみを理由にできるものではありません。どうか、どうかお許し下さい」
 そう言って土下座してひたすら詫びる女を、清七は哀しい想いで見つめた。
―あの時、俺たちが出逢った夜、お前は俺を死んだ亭主だと思い込んでいたのか? だから、自分から俺に抱かれたのか?
 清七は喉元まで出かかった問いを辛うじて押さえ込んだ。
 今になって、そんなことを訊いて、どうするというのだ。あの夜、確かにこの女は言ったではないか、清七の腕の中であえかな声を上げながら、涙に濡れた眼で清七を〝慎之助〟と呼んだのだ―。
「それで、お前はまだ、あんなことを続けてるのか?」
 清七が乾いた声で問うと、お須万は力なく首を振った。
「いいえ、今はもう夜に店をこっそり抜け出したりはしておりません」
 二人の間に沈黙が落ちた。
「そりゃあ、そうだろうな。その身体じゃア、夜歩きなんぞできっこねえ」
 清七が低い声で言った。
 刹那、お須万がガバと身を起こす。
「いいえ! 今の私はもう以前の私とは違います。もう良人や伜を失って哀しみにばかり暮れていた頃の私ではありません。今は―強く生きたいと思っています。生まれ変わったつもりで、もう一度やり直してみようと心から願っているのです」
 そう言いながら、お須万は片手でそっと愛おしげに膨らんだ腹を押さえた。恐らく、それは無意識の中の仕草であったろう。
「腹の子のお陰か? 赤ン坊ができて、また、新しくやり直そうっていう気になったか?」
 清七の指摘に、お須万がハッとした顔で腹部から手を放した。
「おい、もう一度訊く。その赤ン坊の父親はどこのどいつだ?」
 にじり寄る清七の見幕に気圧されたのか、お須万が恐怖に顔を引きつらせ後ろへと退(ひ)く。
「あ―」
 お須万は再び顔色を失っていた。
「その赤ン坊は俺の―」
 そこまで言いかけた清七に向かって、お須万がもう一度両手をつき、頭を地面にすりつけた。
「お願いです、どうか何も言わないで下さい。黙って何も見なかったことにして、このままもう私のことは忘れて下さいませんか」
 お須万は懐から小さな巾着を取り出すと、その巾着ごと両手で差し出した。
「こんなことをすると気を悪くなさるかもしれませんが、今の私にはこれくらいのことしかできません。お詫びの印に受け取って下さい。そして、もう二度と、私の前に現れないで頂けませんか」
 巾着を捧げ持つお須万の両手が震えている。
 その時、清七の中でプツリと何かが音を立てて切れた。
 清七は咄嗟にお須万が差し出した巾着を無造作に掴み、地面に向かって投げつけた。
 巾着が地面に叩きつけられ、その拍子に紐が緩み中から銭が零れ落ち、乾いた音を立てる。その音が、清七には自分の心の悲鳴のように聞こえた。