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橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~・弐

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《其の弐》

 ―運命のその日は、深い湖のような蒼空がどこまでもひろがる秋の日だった。清七は和泉橋町の一角、五百石取りの御家人鳥居(とりい)主(もん)永(ど)正(しよう)忠之(ただゆき)の屋敷から町人町の裏店に戻る途中だった。折しもひと月ほど前から、親方が主永正の屋敷の普請を任されることになり、清七もまた、そちらに毎日通っていたのだ。
 清七が主永正の屋敷を出たのは夕刻、日毎に短くなってゆく秋の陽がそろそろ傾こうかという時分である。西の空を茜色に染める日輪が今日最後の輝きを見せ、蜜色の夕陽が武家屋敷町の築地塀が延々と続く小道をゆるやかに照らし出していた。
 人気のない道をゆっくりとした脚どりで辿りながら、清七は何の気なしに頭上を見上げ、軽い吐息をつく。
 老中の松平越中守さまのお屋敷の前を通り過ぎると、直に和泉橋が見えてくる。立派なお屋敷が建ち並ぶ中でもひときわ宏壮で人眼を引く松平さまのお屋敷の塀越しに、柿の樹の枝が外にのびている。
 夕陽を浴びた柿の実がその橙色をいっそう際立たせている。秋も大分深まってきた。そんなことをとりとめもなく考えつつ、清七は再び、先刻よりはやや歩幅を大きくして帰り道を急ぐ。その時。
 彼の少し手前をやはり急ぎ足で歩く女人の後ろ姿が見えた。海老茶の地に麻の葉模様のその着物は確かに見憶えがある。
 いや、いくら忘れようとしても、けして忘れられるものではない。
 清七は咄嗟に立ち止まった。自らの女へのあまりに烈しい恋情を自覚して以来、女には近付かぬと自分自身に戒めていたのだ。
 たとえ女が自分を一夜限り、良人の身代わりとして利用したのだとしても、恋に落ち惚れたのは自分なのだから。そんな女を、ただふしだらな女と軽蔑し、さっさと忘れることもできたはずなのに、忘れようとしなかった、否、いかにしても忘れられなかったのは他ならぬ自分自身のせいなのだから。
 だが、一瞬、歩みを止めた清七は眼を見開いた。前方を歩いていた女―お須万が突如として、その場にうずくまったからだ。仮にも大店伊勢屋の内儀であれば、誰か伴が付き従っていそうなものなのに、今日は、あの若い番頭の姿も見えない。
 よくよく見れば、お須万の両腕には細い腕に持ち切れそうにもないほどの大きな風呂敷包みが抱えられている。
―何だって、番頭も連れずにあんな重たそうな荷物を一人で持ち歩いてるんだ?
 何とも場違いな腹立ちを感じながらも、清七はなおもその場で様子を見守っていた。
 しかし、お須万は大きな荷を持ったまま、地面に跪いて動こうとしない。もしや、目眩でも起こしたのかと清七は見ていられず、お須万の許へと走った。
「おい、大丈夫か?」
 清七の声が頭上から降ってきて、お須万は相当に愕いたようだ。弾かれたように面を上げ、清七の姿を認めるとピクリと身を震わせた。
 その可憐な顔が見る間に強ばってゆくのを、清七は哀しい想いで見つめた。
―この女は、どうして、こんな幽鬼でも見たような顔で、怯えた眼で俺を見るんだろう。
 ただ遠くからその幸せだけを祈ろうとする男に、どうしてこんな怯え切った眼を向けるのだろう。
 やり切れなさがほろ苦く湧き上がる。
「お願いだから、そんなに怖がらねえでくんな。俺は何もお前をどうこうしようなんていうつもりはこれっぽっちもねえんだ。ただお前さんが幸せでいてくれればそれで良いと思ってるんだ。何しろ、あのときは、ひどく辛そうにしてたから、あれからどうしてるか、また、あんな風に泣いてるんじゃねえかと気になってたんだ」
 清七の言葉に、お須万の美しい顔が色を失った。
「止めて下さい、あのときの話はしないで、お願いですから」
 お須万は蒼白になりながら、懸命な面持ちで言った。この彼女の様子から、お須万がけして、あの半年前の春の夜のことを忘れてはいないのだと判る。
 どうやら、お須万は清七があの夜のことを脅しか強請(ゆす)りのネタにするとでも勘違いしているらしい。
 もし、お須万が自分をそんな卑劣な男だと思い込んでいるのだとしたら、それは清七にとっては、あまりにも残酷なことだった。
「お須万さん、あんたは何か勘違いをしているようだ。俺は今更何を言うつもりもねえよ。もし、お前が俺をそんな風に思っているのなら、それはとんだ了見違いだ」
 そこまで言ってから、清七は、ふと訝しく思った。
 先刻から、お須万は右手で必死に帯の辺りを隠そうとしている。清七の視線が真っすぐにお須万の腹部を捉えたその時、彼は自分の見たものが到底、俄には信じられなかった。
 お須万の帯を締めた辺り―、腹部があろうことか大きく膨らんでいたのである。そのふっくらとしたお腹は、お須万が身ごもっていることを何より物語っていた。
「おい、お前。それは一体、どういうことなんだ?」
 清七が勢い込んで訊ねると、お須万は小さな悲鳴を上げた。それでも、お須万は懸命に膨らんだお腹を隠そうとする。
 清七は夢中でお須万の右手をどけると、食い入るようにその腹を見つめた。
「お前、身ごもってるんだろう? 何で、俺にその膨らんだ腹を見せたがらねえんだ?」
 清七は、お須万の腹を凝視しながら、目まぐるしく思考を回転させる。
 この腹のふくらみ具合なら、今はやっと六月(むつき)に入ったところか。だとすれば、この腹の子は、お須万の胎内に宿った赤児は―。
「この腹の子は、あのときの子か? 俺の―、俺の」
 しかし、お須万は最後まで言わせなかった。
「止めてッ!」
 悲鳴のような叫び声が清七の言葉を遮った。
「あのときの話はしないでって、言ったじゃありませんか」
 清七は真剣な顔で首を振った。
「そいつは、俺がこのことを知らなかったときの話さ。なあ、頼むから、本当のことを言っちゃくれねえか? お前のこの腹じゃア、身ごもったのは大方は春。丁度、俺たちがここで初めて出逢った夜くれえだろう。見たところ、お前は誰かれ構わず、男と見れば誘いをかけるような、そんな女じゃねえ。だとすれば、必然的にその腹の中の子は俺の子じゃないかと思えてならねえんだ。それとも、何か、言いにくいことを訊くが、お前、あの頃、他に誰か別の男と寝たのか」
―あの女の方から誘ってきたんだ。
 半年前、お須万に乱暴しようとした二人組の片割れ―長身の男が口にしたひと言が咄嗟に脳裡をよぎった。現に、彼女は清七にも〝抱いて〟と確かに縋るような眼を向けてきた。
 しかし、清七は、お須万があの男の言うようなふしだらな女ではないと、そんな淫らな女ではないと信じたかった。
 たとえ亭主の身代わりとしてしか見られていなかったとしても、お須万が選んだ男は自分一人だと信じたかった。
「ち、違います。私、誰とも―あんなことしてません」
 お須万は今にも泣き出しそうだった。大きな眼を一杯に見開き、烈しくかぶりを振る。
 だが、それが何よりの応えだった。
 清七は深い息を吐いた。
「そんなに怯えねえでくれ。俺は何もお前を責めてるわけじゃないんだから」
 お須万は首を振りながら消え入るような声で応える。
「いいえ、それでも、私があなたに対してしたことは、到底許されるものではありません。私、本当にあの頃はどうかしていたのです」