橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~
信濃屋は鷹揚に言って笑い、頭を下げた。
「それでは、他のお人をあまりお待たせするわけにもゆかない、夜道は物騒だから、くれぐれも気をつけてお帰りなさい。番頭さん、お内儀(かみ)さんのことをよろしく頼みましたよ」
信濃屋はそう言いおいて、〝みやこ〟と紺地に白く染め抜かれた長暖簾をかき分け、中へと戻ってゆく。
女の傍らにいた若い男が〝へえ〟と畏まって信濃屋に頭を下げた。
「それでは、お内儀さん。参りましょうか」
その男が控えめに声をかけると、女はハッと我に返ったような表情(かお)で頷く。
「えっ、ええ」
「お内儀さん? どうかされましたか」
どうやら番頭らしい男が怪訝な顔で女を窺い見た。
―そうか、あの女はお須万というのか。
清七は心の中で幾度も呟いた。
―お須万、お須万。
女の名を呟きながら、我知らぬ中に、お須万主従の前にふらふらと歩み出ていた。
「手前どもに何かご用でしょうか」
番頭は言葉だけは慇懃に、しかしながら、眼には警戒心を漲らせて言った。その眼は明らかに清七を胡乱(うろん)なものとして見ていた。
「お前―、お須万という名前だったのか」
うわ言のように呟いた清七に、今度ははっきりと態度にも敵愾心を露わにして番頭が言う。
「何なんですか、あなたは」
清七は番頭なぞ無視して続けた。
いや、無視したというよりは、彼の眼には端から女―お須万しか映ってはおらず、番頭なぞ眼中にはなかったのだ。
「逢いたかった。ずっと、どうしているかとそればかり案じていたんだぜ」
「良い加減にして下さい」
番頭がすっとお須万の前に両手をひろげて立ちはだかる。まるで、清七がお須万を害そうとすると言わんばかりの態度だった。
―違う、俺はお須万をどうこうしようなんて気は、これっぽっちもねえ。ただ、お須万にひとめで良いから逢いてえ、その顔を見てえと思ってただけなんだ。
そう言おうとした清七を、番頭が冷たい眼で睨(ね)めつけた。
「言いがかりは止して下さいよ、これ以上、お内儀さんにしつこくつきまとうというのなら、番所に訴えて岡っ引きに来て貰いますからね」
と、なおも続けようとした番頭を、お須万が制した。
「嘉一(かいち)さん、もう良いのよ。きっと通りすがりの人が人違いをなすっただけなんでしょう。それよりも、もう行きましょう」
お須万に言われ、嘉一と呼ばれた番頭が頭を下げた。
「判りました。お内儀さんがそうおっしゃるなら、私ももう何も申しません」
嘉一は不承不承頷いたが、それでもなお腑に落ちない様子で幾度か清七を振り返って見ていた。
―おい、待てよ。行かねえでくれ。折角逢えたのに、そのつれない態度はないだろう?
そう言いかけて伸ばした指先は、空しく宙をかき、力を失って落ちた。清七の前を、お須万はまるで路傍の石ころの傍を通り過ぎるように、すっと通り過ぎていったのだ。
それは、お須万が清七と係わり合うのを避けているというよりは、己れの視界から清七という存在そのものを完全に抹殺し、端から、眼に入らぬものとして扱おうと考えているかのようでもあった。
清七は魂を抜かれてしまったかのように、いつまでもその場に立ち尽くす。
通りを歩いてゆく若い男女の二人連れが不審そうな顔で何やら囁き交わしながら、清七の方を見て通り過ぎてゆく。
卯月もそろそろ終わろうとするある宵のことだった。
それからというもの、清七はお須万について、可能な限り調べた。その結果、あの女の氏素性について幾つかの事実を知ることができた。
〝みやこ〟から出てきた信濃屋という商人とお須万のやりとりから、お須万が伊勢屋という屋号を持つ店の女主人だということや、亡くなった慎之助というのが、お須万にとって何らかの拘わりがある男であろうことも容易に察しがついた。
お須万の身許は意外に簡単に知れた。町人町の目抜き通りにある〝伊勢屋〟はもうかれこれ数代続いてきた呉服太物問屋で、お須万は先代の主人安右衛門の一人娘として生まれ育った。十六でやはり同業の呉服商佐野屋の次男慎之助を聟に迎え、その二年後には長男にも恵まれている。
しかし、二人の間に生まれた伜慎太郎は生後八ヵ月で夭折、その半年後、亭主の慎之助までもが伜の後を追うように病死してしまった。
慎之助という名は、半月前のあの夜、お須万が何度も口にした名だ。清七の腕の中で身もだえながら、お須万はうわ言のように何度も慎之助の名を叫んだのだ。恐らく、あの時、お須万の眼には自分を抱く男の顔が亡くなった恋しい亭主に見えていたに違いない。
お須万と慎之助は幼時から親同士が決めた許婚者で、所帯を持ってからは他人も羨むほど仲睦まじい夫婦であったという。すっきりとした面立ちの美男であった慎之助と美人で評判のお須万は並べば、一対の夫婦(めおと)雛のように似合いであったとか。
亭主に先立たれた後、お須万は女一人で伊勢屋の身代を守り抜き、現在、伊勢屋はやり手と称された先代のときよりも更に手広く商いをしているそうだ。〝みやこ〟から一緒に出てきた信濃屋惣兵衛はやはり同じ呉服太物問屋で、慎之助の実家佐野屋とは親戚に当たる間柄でもあり、慎之助が二十二の若さで突如として逝った後、親身になって何くれとなくお須万や伊勢屋の力になったとのことである。
あの日、信濃屋と共にいたときは、たまたま同業の呉服商ばかりが集まる寄合が〝みやこ〟で行われ、その帰りであったらしい。
思いがけず、お須万が江戸でも指折りの大店伊勢屋の女主人であると知ってもなお、不思議と清七の心に怒りはなかった。あの一夜を共にした日、お須万は明らかに清七に失った良人の面影を重ねて見ていた。
それでも、身代わりにされたことに腹立ちもなく、ただ空しいだけだった。何故、お須万の、あの女の心に棲みついているのがとうにこの世の者ではない男で、この自分ではないのか。
そう思えば、果てしなく空疎な想いが胸の中にひろがってゆくばかりで、その空しさは日毎に大きくなり、清七はいつ何をしていても、我が身の内にぽっかりと空いた大きな空洞を抱えているような気がしてならなかった。
胸の内に巣喰う空洞には孤独という果てしなく大きな魔物が潜んでいる。その魔物は空しさを糧として日々、ますます大きくなってゆく。そして、その魔物が大きく育つにつれ、お須万への恋慕の想いもまた募っていった。
いつの頃からか、清七は懐深くに匕首を忍ばせて出歩くようになった。一度は伊勢屋の近くまで、懐に匕首を隠し持ったまま行ったこともある。しかし、清七は、けしてお須万が憎いわけではなかった。むしろ、あまりにも恋しくてたまらず、この現世(うつしよ)で添うことの叶わぬ運命(さだめ)であれば、せめて来世で添い遂げたい―と、そう切なく望んだのである。
自分でも何ゆえ、そこまであの女に魅せられるのか判らなかった。
おみのや太助を二度と取り戻すことはできなくとも、清七は幸せになろうと思えば、幾らでも幸せになれるはずの身であった。事実、世話になっている大工の棟梁からも知り合いの十八になる娘を世話してやるから、後添えに迎えないかと縁談を勧められている。
作品名:橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~ 作家名:東 めぐみ