小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~

INDEX|6ページ/6ページ|

前のページ
 

 女に想いを打ち明けられることもけして少なくはない。清七自身は自覚していないが、彼は翳りのあるなかなかの男前なのだ。
 それが三年前に大切な女房と子を続けざまに喪ってからというもの、端整な男ぶりに更に濃い愁いが加わった。若い娘たちにとっては、その翳りのある苦み走った男ぶりに更に磨きがかかったように見え、たまらないらしい。
 それでも、清七は、言い寄ってくる女たちには少しも心を動かされなかった。
 何故、お須万なのか。あの女でなければいけないのか。もしかしたら、水面(みなも)に映る月影のように、けして手に入らぬものだからこそ、是が非でも手に入れたいと望んでしまうのか。そんな風に考えてもみたけれど、やはりそれは的を射てはいないように思えた。
 ただ一つ言えることは、おみのと太助を失ってからというもの、心に空いていた穴に、あの女―お須万がどっかりと腰を下ろし、棲みついてしまったということだけ、それだけは確かだといえた。
 現に、お須万と出逢った日から、おみのと太助のことを思い出す時間は次第に減り、いつしか、思い出すことさえなくなっていた。
 その代わりのように、お須万の面影を日がな瞼に思い浮かべ、お須万と過ごしたあの夢のような一夜のことばかり考えている。
 そういってしまえば、薄情な男のように思われるだろうが、それが恋というものかもしれなかった。
 匕首を隠し持っていったその日、幸か不幸か、お須万に出逢うことはなかった。後になって、清七はあのときの己れの心持ちについて何度も考えてみた。
 あの時、自分は一体、どうするつもりだったのか。もし仮にお須万の姿を物陰から認めたとしたら、自分はどのような行動を取っていたのだろう。身を潜めていた物陰から飛び出し、懐から匕首を取り出し、あの女に向かって走り、鈍く光る刃をひと思いに振り下ろしていたろうか―。
 あのときにしろ、今にしろ、彼自身の心の中には、お須万を憎しと恨む気持ちも殺したいと思う気持ちもかけらほどもない。ただ、お須万が死ねば、自分もすぐにその後を追い、二人で手に手を取って恋の道行きといこう―つまり、お須万を死出の旅の道連れにしようと目論んでいたのである。
 むろん、そのときの清七には、お須万をこの手で殺して、自分も後を追うなどという明確な意思があったわけではない。ただ、漠然とそんなことを脳裡に思い描いていたにすぎず、後になって、そのときの己れの胸の内を覗いた清七自身がその考えの無謀さに驚愕した有り様であった。
 とはいえ、万が一にもその目論みが現実のものになっていたとしたら、怖ろしいことであった。そのような犯行を世では無理心中という。女の色香に血迷い、女を死出の道連れにして自分の想いを遂げようという身勝手な男の凶悪な企てと見られても致し方ない。
 清七がそんな卑劣な極悪人にならずにすんだのは、幸運というか、ほんの偶然にすぎなかった。もし、その時、清七がお須万の姿をひとめでも眼にしていれば、お須万を刺して、自分もすぐに同じ刃でその胸を貫いていたに相違ない。
 その日、清七が事を起こさなかったのは、たまたま女の姿を見なかったからなのだから。
 しかし、その日以降、清七は匕首を持ち歩くことを止めた。たとえ、そこにどのような理由があるにせよ、人ひとりの生命をむやみに奪うことは許されない。お須万を自分一人のものにしておきたいというのは、あくまでも清七の一方的な理屈であって、世間で通用するものでもなく、誰に理解して貰えるものでもなかった。
 自分の一方的な想いゆえに、女ひとりの生命を奪おうとした―、我が身がしでかそうとしていた行為のおぞましさに改めて気付き、清七は寒気を憶えずにはいられなかった。
 だが、そんな心の葛藤を経てもまだ、清七のお須万への思慕はけして消えることはなかったのである。むしろ、花が季(とき)のうつろいを経てなお、その色を深めるように、川の流れがいっとき、急に深みへと転ずるように、その想いは刻を経て、よりいっそう烈しく深いものへと変わっていった。
 自分がたとえはっきりと意図したものではないとはいえ、女の生命を奪おうと一瞬たりとも考えたと知ったその日、清七は伊勢屋に脚を向けなくなった。
 お須万への想いはむしろ以前より更に深まったが、この報われぬ想いを心の奥底深くに封じ込め、惚れた女の幸せを陰ながら見守ろうと彼なりに決意したのだ。