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橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~

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 しかし、その傍らで、女に既に心を奪われた自分が悪魔の囁きを繰り返す。
 なに、構やしねえさ、こんなに期待に満ちた眼をしてる女なんだ、一晩、相手をしてやるくらいなら、どうってことないさ。
 清七は女の身体を軽々と抱き上げる。
 女の身体はまるで羽根か何かのように怖ろしく軽い。その頼りない軽さこそが、この女の存在そのものを現(うつつ)のものではないように思わせ、清七は女の身体に回した手に力を込める。
 やわらかな身体が砕けんばかりにかき抱(いだ)くと、女は苦悶とも歓びともつかぬ呻き声を上げ、わずかに身体をねじった。そんな仕草さえ清七の中に灯った焔を煽る。
 清七は女を抱え上げ、橋のたもと―川原に運んだ。
 ささやかな流れに寄り添うようにひろがる川原に、枝垂れ桜が一本、植わっている。薄紅色の桜貝のような花びらが、月の光に濡れて冴え冴えと輝いていた。その下に群生する夜目にも鮮やかな黄色の絨毯は菜の花が群れ固まって咲いたものだ。
 その花の褥にそっと女の身体を横たえながら、清七は夢中で女のやわらかな膚をまさぐった。
 月明かりを受けてきらめく川の面に、枝垂れ桜と丸い月が映っている。夜風が吹き渡る度にさざ波立ち、水面が動き、月も花も揺れる。
 ひそやかな二人だけの刻を、ただ月と花だけが静かに見下ろしていた。

                 





     《弐》

 清七は、とりとめもない物想いに耽りながら歩いていた。町人町の外れ、和泉橋に至る小道沿いに〝みやこ〟という小ぎれいな小料理屋がある。清七のような左官、しかも日雇いの身のしがない稼ぎでは到底、敷居を跨ぐこともできない高級割烹で、このような店に通うのは名の知れた大店の旦那衆か高禄の直参旗本のような金のある常連客に限られている。
 清七などはせいぜいが〝いっぷく〟のような一膳飯屋の常連になるのが良いところだ。
 その自分とは一生縁遠い高級料亭を清七はボウとしたまなざしで見つめていた。幾ら一生懸命あくせく働いてみても、金は一向にたまらず、暮らしは何も変わらない。
―どうしてなんだ、どうして俺にはちっとも良いことがないんだ。
 近頃、清七はつくづく思わずにはいられない。
 この世には本当に神や仏がいるのだろうか、と。もし、神さまや仏さまが存在するのならば、どうして、自分のように日々慎ましく懸命に生きている人間が辛い目にばかり遭うのだろう。
 三年前、おみのと太助を一辺に失い、今、また、漸くめぐり逢えた女との縁(えにし)さえ、無情にも絶とうとするのか。あの不思議な女―どう考えても狂っているとしか思えない女と思いがけず一夜を共に過ごしてからというもの、清七は女のことばかり考えている。
 あれから半月余り、川のほとりの桜もとうに散り、江戸は眩しい新緑の季節になった。
 あの橋を通る度に、清七はあの夢のような一夜を思い出さずにはいられないのだった。
 菜の花が一面に咲く花の褥に横たわった女の膚が月の光に照らされ、夜陰にほの白く浮かび上がっていたこと、朧に滲んでいた春の月や雲母(きらら)のごとく煌めいていた桜の花びら、あの夜の情景の一つ一つがあたかも芝居の一幕を再現するかのごとく瞼に鮮明に甦るのだ。
 自分の腕の中で泣きながらしがみついてきた女が忘れられない。
―お前さん、もう、どこにも行かないでね。絶対に私を一人にしないでね?
 捨てられようとする子猫のような眼で見上げてくる女を、清七はひしとかき抱(いだ)き、その丈なす豊かな髪を撫でてやった。
―ああ、もう二度とお前を一人にしたりはしない。いつまでも、ずっとお前の傍にいるよ。
 髪を撫でながらそう言うと、女は少女めいた微笑を浮かべ、心から安堵したかのように清七の裸の胸に顔を押しつけてきた。
 清七に貫かれたときの女の切なそうな表情、〝行かないで〟と縋りついてきたときの泣き顔、女の見せた様々な顔が何をしていてもちらつく。
 せめて、もう一度で良いから逢いたかった。清七にとって、あの女が狂人かどうかなどはこの際、問題ではない。あの女はたった一瞬で清七の心を魅了し、奪っていった。
 あの夜を境に、おみのと太助を失って以来、止まったままだった清七の刻は再び動き始めたのだ。何としてでも、もう一度逢って、顔を見たかった。触れ合うことは叶わずとも、遠くからその姿を見ることができれば、それで十分だった。
 いかにしても消すことのできぬ女の面影を清七が追っていたその時、賑やかな話し声が耳を打った。
「それでは、信濃屋さん。私はこれにてお先に失礼させて頂きます」
 まだ若い女の声だ。
「今日はどうもご苦労さまでございました。これから二次会が深川の方の店であるとのことですが、うら若い女人をそのような場所にお誘いするのは気が引けますゆえ、今宵はここでお見送りすると致しましょう」
 物柔らかな口調は、いかにも商人らしい余裕のある喋り方だ。
 所詮、清七とは住む世界が違う大店の主人だろう。
「私も残念にはございますが、店のこともありますから、やはりここでお暇させて頂きますわ」
 澄んだ玲瓏とした声、―この声には聞き憶えがある。
 刹那、清七は弾かれたように顔を上げた。
 まなざしとまなざしが交わった瞬間、女の形の良い双眸がこれ以上はないというほどに見開かれる。
 その瞳には明らかにこの再会を歓迎してはいない女の気持ちがありありと表れていた。
 一瞬の後、女がフッと視線を逸らす。
 烈しい当惑を抱えながら、清七はただ茫然として女を見つめているしかなかった。
 半月前の夜、自分の腕の中であれほど乱れ、潤んだ瞳で〝行かないで〟と訴えながら、こうもあっさりと手のひらを返すような態度を取れること自体が俄には信じられない。自分たちが共に過ごしたあの狂おしいまでのひとときは一体何だったのかと、まるで狐か狸に化かされたような気さえする。
 自分に何度も抱かれて、あれほど切なげな喘ぎ声を上げながら、今は素知らぬ顔で清七を無視しようとする女を恨めしいと思うよりは、その心が理解できなかった。
「それにしても、慎之助さんがお亡くなりなすって、そろそろ三年、お須万さんはよくお一人でここまで頑張りなさいましたね。正直、慎之助さんがあんな風に逝かれてしまったときは、私も伊勢屋さんの身代がどうなることかと案じましたが、なかなかどうして、お須万さんは本当によくやりなさった。お前さんの踏んばりがあったからこそ、今の伊勢屋さんの繁盛があるんですよ。私も慎之助さんの実家(さと)方の身内の者として鼻が高い」
 信濃屋と呼ばれた商人は五十年配の恰幅の良い男で、にこやかにそんなことを話している。
「いいえ、私はただ、あの人が急に亡くなっちまって、ただ夢中でやってきただけで。信濃屋さんを初めとされる同業のお歴々のお力添えがあったからこそ、今日まで商いをやってこられたのだと思っています」
「いや、並の女では到底、ここまではできないことですよ。マ、もっとも、そうやって謙遜するお須万さんだからこそ、我々も何とかして力をお貸ししなければと思ったのでしょうよ。それこそ鼻っ柱の強い勝ち気なだけの女ならば、勝手にやれとそっぽを向いたかもしれませんからな」