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橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~

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 清七は女の細い手首を掴んで立ち上がらせると、そっと手を放す。心のどこかで、ずっと女の手のやわらかさを確かめていたいという想いがあった。
「行くぜ」
 声をかけてから一人で歩き出した清七の後ろを女は少し離れてついてくる。
 清七は少し進んでは、後ろから女がついてきていることを確かめながら、ゆっくりと歩いた。短い橋は、あっという間に渡り終える。
 橋のたもとまできた時、清七は二人の間に落ちた沈黙に耐えかね、ふと女に問うた。
「何だって、こんな夜更けにふらふらと出歩いてるんだ?」
「あの子の泣き声がどこからか聞こえてくるような気がして」
「あの子―?」
 清七が問い返すと、女がふいに立ち止まった。つられるようにして清七も歩みを止め、女を振り返った。
 その瞬間、清七は眼を見開いた。
 女はボウとまるで魂を抜き取られでもしたかのように虚ろな眼で前方を見つめていた。
 と、女が探し物でもしているかのように、首を忙しなく動かした。
「慎ちゃん、慎ちゃん? 一体、どこにいるの? ねえ、慎ちゃん?」
「おい、お前、一体、何言って―」
 清七が女に言おうとしたその時、いきなり、女の形相が変わる。
 あたかも芝居の中で優しい女(おみな)の顔が怖ろしき夜叉に変化(へんげ)するかのように、女の美しい貌が一瞬にして歪んだ。
「ああッ、あの子が呼んでいる! 慎太郎が私を呼んでいるわッ。早く、早く行かなければ」
 なりふり構わぬ勢いで身を翻そうとする女を咄嗟に後ろから抱き止め、清七は女の耳許で大声で怒鳴った。
「おい、落ち着けよ。一体、何だっていうんだ?」
「放して、放してよッ。あの子が泣いているんだから、早く、早く行ってやらないと」
 女はそのか細い身体のどこにこれほどの強い力が潜んでいるのかと思うほどの力で暴れる。
 清七は凄まじいまでの力に撥ね飛ばされそうになりながらも、渾身の力で女を羽交い締めにした。
「子どもの泣き声なんて、どこからも聞こえてきやしねえぜ。おい、しっかりしな、よっく耳を澄ませてみろよ」
 懸命に言い聞かせてみても、女はいっかな聞く耳を持たず、あらん限りの力を出して抗う。
 それでも清七は女を押さえ、耳許で〝子どもの泣き声など聞こえない〟と繰り返した。そんなことをどれほど辛抱強く続けただろう、やがて、やみくもに暴れ狂っていた女がふっと抵抗を止めた。
 花が一挙に萎れてゆくかのように、そのか細い身体から力が抜けてゆく。
 女が再びその身体を小刻みに震わせ始めた。
「お、おいッ。大丈夫か?」
 清七は仰天して、気遣わしげに女を見る。
 女がゆるゆると面を上げた。その白い頬をころがる涙の雫に、清七はハッと胸を衝かれた。
「行っちまった、聞こえなくなっちまったよ。あんたが邪魔をするから―、あの子の行く方がまた、判らなくなっちまったじゃないか。あの人もあの子も皆、行っちまう。私を一人ぼっちにして、行っちまうんだ」
 女は泣きながら言うと、両手で顔を覆った。まるで心を二つに引き裂かれるかのような、狂おしくも切ない泣き声がひとしきり春の夜気に響く。
 清七は当惑しながらも、女のしたいようにさせておいた。
 どのような事情があるのかは判らないけれど、この女に到底、ひと言では言い尽くせぬ経緯があることは明白だ。ゆきずりの他人にすぎない清七には何の力になってやることも叶わぬが、せめて今だけは泣きたいだけ泣かせてやりたかった。
 泣くだけ泣いてしまえば、また、明日からは笑って―少なくとも上辺だけは何もなかったような顔で生きてゆけるだろうから。
 他ならぬ清七自身がそうだった。三年前、おみのや太助を理不尽にも奪われた直後、清七はそうやって最も辛い時期をやり過ごしたのだ。夜、誰もおらぬ真っ暗な我が家に戻って、灯りもつけずに片隅に蹲り、膝を抱えて声を殺して泣くだけ泣いたら、明日の朝にはまた、何食わぬ顔で顔を洗い、仕事に出かけた。
 そんなことを繰り返している中に、いつしか心は哀しみに慣れ、哀しみそのものは消えることはなくとも、現実はこんなものなのだと、あるがままの状況を受け容れながら生きてゆくすべを自然と憶えていった。
 そんな清七の心が伝わったのかどうか、ひとしきり経つ間に、女の泣き声は次第に小さくなり、やがて完全に止んだ。
 が、次に女の唇から零れ落ちた呟きに、清七は更に度肝を抜かれることになる。
「―お前さん、ああ、お前さん、やっと帰ってきておくれなんだね?」
 「え」と、清七は絶句した。
 どうやら、この女は本当に狂っているとしか思えない。
 子どもの泣き声にせよ、今の清七に〝お前さん〟と呼びかけることにせよ、女は本来ならば見えないもの、聞こえないはずのもの―つまり幻聴や幻覚といったものを見聞きしているようだ。
 だが、不思議と清七は眼前のこの女を薄気味悪いとも、怖いとも思わなかった。ただただ、女が哀れに思えるだけであった。正気を手放し、現から逃れて狂気の世界へとさまよい歩くほどに、それほどに哀しいことが恐らくは彼女を襲ったのだろう。
「ああ、お前さん、やっと帰ってきてくれなすった。慎太郎がいなくなっちまって、お前さんまでが帰ってこなかったら、私は一体どうしたら良いのかって、いつも途方に暮れてたんだよ。ねえ、お前さん、慎太郎はどこに行っちまったんだろうねえ」
 女は清七を完全に誰かと勘違いしている。
 清七は戸惑いながらも、そんな女を突き放すことはできず、思わず頷いていた。
「あ、ああ。帰(けえ)ってきたぜ」
「もう、悪い人。どうして、こんなに遅くなっちまったの? 私はずっと、お前さんを探してたっていうのに」
 女は心底嬉しげに笑うと、親の迎えを待ち侘びていた子どものように勢いつけて清七の胸に飛び込んできた。
 その弾みで勢い余った清七が数歩後ろによろめく。
「慎之助さんの意地悪」
 女が清七の逞しい胸に頬を押し当て、拗ねたように言う。
 刹那、清七の身体がカッと熱くなった。
―やはり、この女は俺を慎之助という男と間違えている。
 そうとはっきり判ったからには、女の身体をすぐにも離さなければならないと思うのに、何故かできない。
 清七自身にも、そのとき自分の身の内を一瞬駆け抜けたやり場のない感情が何なのか、―果たして、その慎之助という見たこともない男への嫉妬なのか、それとも、やわらかな女の身体からかすかに漂う香りに清七の中の男が久々にめざめたのか―そのどちらとも判らなかった。
 ただ一つだけ言えたのは、無心な瞳で自分を見上げてくる女の顔から、眼が逸らせなかったということだけ。
 女は本当に心底嬉しげな顔で清七を見ていたのだ。親を一途に信じる子どものような信頼に満ちた眼で、童女のようなあどけない微笑みを浮かべて清七だけを見つめていた。
「―抱いて」
 女が清七の胸に顔を埋(うず)めたまま口にしたひと言を、清七は夢見心地で聞いた。
―抱いて欲しいって、物欲しげな眼で俺を見てさ、縋るように自分から頼んできたんだぜ。
 また、あの長身の男の言葉が耳奥で響いた。
 もう一人の冷静な自分がしきりに警告している。
 いけない、清七、この女に拘わるな。こんな気違い女に拘わったりしないで、さっさと一人で帰るんだ。