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橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~

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 三年前のあの日、おみのが死を選ぶほどにまで追いつめられていることに思い至らなかったこと―我が身の迂闊さに、清七は烈しい後悔の念を抱いている。せめてもう少し、おみのの気持ちを思いやっていれば。
 男と異なり、女は子をその胎内に宿したと知った日から、十月もの間、己れの身の内で育んで、更に生みの苦しみを経て漸く母となる。そこまでして生んだ我が子を、眼の前で殺されたおみのの心の内はいかばかりであったことか。
 恐らく、太助が死んだ時、おみのの心も共に死んでしまったに相違ない。自分では、おみのをこの現世(うつしよ)に引き止めることはできなかったのだ。あのときは、己れの無力をもさんざん思い知ることになった。
 思えば、川に身を投げる前夜、おみのは清七に取り縋って、こう訴えのだ。
―太助がいないと、私は駄目。
 そのひと言が恐らくは、おみのから発せられた、たった一つの叫び―救いを求める声であったろうに、清七はその叫びに気付いてやることができなかったのだ。
 あの時、清七は、ただおみのを抱きしめてやることしかしなかった。
 清七があの頃のことを思い出し、再び暗い気持ちになった時、ふと橋の上に浮かび上がる人影に気付いた。朱塗りの小さな橋の上に立ち、川面をじいっと見つめる女。十六夜の月が女の姿をくっきりと照らし出している。
 年の頃は恐らくは二十歳くらい、色の白いなかなかに整った面立ちの女で海老茶の麻の葉模様の着物に紺の帯を締めている。
 その思いつめたようなまなざしの険しさが、一瞬、清七の記憶の中のおみのと重なった。
 大体、若い女がこんな深夜に一人で江戸の町外れを歩いているそのこと自体が尋常ではない。清七がそんなことを考えていると、突然、女の悲鳴が辺りに満ちた静けさを破った。
 清七はハッと我に返った。
 見れば、橋の上で女が二人の男に囲まれている。大方は町人町の方から来た男たちであろうが、どうやら相当に酔っているらしく、二人共に呂律もろくに回っておらず、脚許も怪しい。
 男たちと女のやりとりまでは、ここからでは聞き取れない。その中、一人の男が女を背後から抱きすくめた。愕いた女から二度目の悲鳴が洩れる。抵抗する女には頓着せず、もう一人の男が更に女の両脚を持ち上げ、二人の男はまるで荷物を運ぶように女を抱えて、どこかに連れ去ろうとしていた。
 二人の男の下卑た思惑が安易に想像でき、清七は烈しい怒りに燃えた。
―こいつらのような男が、おみのを滅茶苦茶にしやがったんだ。こんな卑劣な奴らは許せねえッ。
 刹那、清七は声の限りに叫んでいた。
「おみのッ」
 清七の眼に映じているのは、かつて浪人瀬田川亮馬に犯されたおみのの姿であった。
 あの時、俺は、おみのを―惚れた女を救ってやることができなかった。でも、今なら―。
 そう思った時、清七は我知らず、駆け出していた。
「手前ら、一体、何してやがるんだ!? 良い歳をした大の男二人が寄ってたかって、たかが女一人を思いどおりにしようってえのか?」
 清七が瞳に烈しい怒りを込めて怒鳴ると、男の一人が鼻を鳴らす。小柄で丸顔に細い眼は見ようによっては愛敬があるといえなくもないが、悪酔いしているらしく、両の眼が座っている。
「ヘン、こんな夜更けにふらふらと一人でほっつき歩いてる方が悪ィんだよ。まるで、男においで、おいでって自分から誘ってるようじゃねえか」
「何だとォ?」
 ますます顔の色を濃くする清七を憐れむかのように、丸顔の男の傍らの長身の男が軽く肩をすくめる。
「兄さん、そいつの言うことは生憎と嘘じゃねえぜ。その女、先刻、確かに俺にこう言ったんだ。抱いて欲しいって、物欲しげな眼で俺を見てさ、縋るように自分から頼んできたんだよ、おい、なあ?」
 最後の問いかけは清七や丸顔の男に向けてというよりは女に向けて発せられたもののようであった。
「本当なのか?」
 清七が戸惑いながら女に訊ねるために振り向くと、女は橋の上で一人、震えていた。華奢な体軀を小刻みに戦慄(わなな)かせ、怯えている。
 清七は緩くかぶりを振り、二人の男に言った。
「今夜のところは、これでおしまいにしちゃくれねえか。あのとおり、女もどうやら普通じゃねえ。あんな状態の女を相手にしたって、お前らも後味が悪いだけだろう?」
 清七はできるだけ穏やかに喧嘩口調にならぬよう注意を払いつつ、長身の男の方を見つめた。
 よくよく見れば、男たちは清七とさほど歳は変わらぬ風で、二十五、六といったところだろう。深酔いなどしていなければ、深夜の人気もない道で女を襲うような真似はすまい。ごく普通の堅気の男のように見えた。
「ああ、判った。お前さんの言い分はもっともだ。誘ってきたのは確かにそっちだが、考えてみりゃア、常識のある真っ当な女が真夜中にこんな人気のねえ場所をうろついたり、自分から抱いてくれと迫ってくるはずがねえ。大方、少し頭のイカレちまってる女だろうぜ。そんな気違い女とうっかり拘わり合いになってもなあ?」
 男は呟くと、丸顔を肘でつついた。
「俺は良いけどよ、お前は煩(うるせ)え嬶(かか)アがいるだろう?」
 「おっ、おお」と、全然所帯持ちには見えない丸顔の男がしまらない様子で相槌を打つ。
「とにかく、俺たちはもう行くわ。済まねえが、その女、何とかしてやってくれよ」
 二人の男たちは折角の酔いもすっかり醒めた風で、肩をすくめながら、そそくさと歩いていった。
 武家屋敷町の方に消えてゆく二人連れの後ろ姿を見送った後、清七はつと振り返った。
 女は相変わらず、細い身体を震わせている。
「おい、大丈夫か?」
 清七は女の傍に近寄ると、うつむき加減のその顔を下から覗き込んだ。
「まァ、たいしたことがなくて済んだから良かったようなものだが、今度から、こんな馬鹿なことはするんじゃねえぞ」
 幼い子どもに噛んで言い含めるように言い、清七は、先刻のあの二人組の片割れ―長身の男が言っていた言葉をふっと思い出す。
―抱いて欲しいって、物欲しげな眼で俺を見てさ、縋るように自分から頼んできたんだよ。
 清七は慌てて、耳奥でこだまする男の声を振り払う。
 あの男の科白が真実かどうかなど、清七には所詮拘わりのないことだった。清七はまだしつこく聞こえてくる男の声を努めて無視して、女に言った。
「念のため、送っていこう。また、あんな、ろくでもねえ奴らに出くわさねえとも限らないからな」
 できる限り優しい声音に聞こえるように言う。しばらく待っても女が動き出す気配がなかったため、仕方なく手を貸して立ち上がらせてやった。
 想像以上にやわらかな女の手の感触に清七が戸惑っているその時、澄んだ声が沈黙を破った。
「―優しい方なのですね」
 しっとりと甘く潤んだ春の夜気の底でほのかに香る花のかおりのような、そこはかとなく甘さとけだるさ、それに愁いを含んだ声が妖しく男の心を揺さぶってくる。
 だが。ハッとして女の顔を見、その白いすべらかな頬が濡れているのを見てしまった清七は愕然とした。
 何故、この美しい女は泣くのだろう。先刻の出来事がよほどこたえたものか。涙に濡れた美しい女の顔に、清七は刹那、心を鷲掴みにされてしまったようでもあった。