小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

橋ものがたり 〔第1話〕~春の夢~

INDEX|1ページ/6ページ|

次のページ
 
《其の壱》

 春の月が夜空に朧に滲んでいる。花の甘い香りを含んで、夜気がしっとりと潤んでさえいるような春の宵であった。呑まぬ酒に酔ったような快い酩酊感に浸りながら、夜道を男が歩いている。
 だが、たった今、出てきたばかりの一膳飯の主喜平の科白が耳奥で甦ると共に、そのほろ酔い気分も一挙にどこかに消えてしまった。
―清七さん、あんたのところももう三年だ。そろそろ、もう一度、所帯を持っても良い頃合いじゃねえのかい?
 喜平の言葉が男―清七がこれから帰ろうとしている我が家のことを余計に思い出させる。そう、清七の独り住まいする長屋には明かりもついておらず、真っ暗で深閑とした家は、たった四畳半ひと間が随分とだだっ広く感じられる。
 家族と共に賑やかに暮らすことが当たり前のように思っていた時分は、こんな日が来ようとは想像だにしなかった。ひっそりと静まり返った家の内を思い、清七は暗澹とした気分に陥った。
 そして、春の宵にたとえ一刻でも酔いしれようとしていた自分に嫌悪感を感じ、妻子に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。あたかも自分が亡くした女房や子どものことを忘れ果てた薄情な男のように思えてくる。
―畜生、喜平の親父、幾ら手前の娘が良い縁づき先を見つけたからって、他人(ひと)のことにまで余計な口出しをするこたァねえじゃないか。
 おみのや太助がまだ達者であった頃から、しばしば通っていた一膳飯屋〝いっぷく〟の親父喜平の一人娘お順は出戻りだった。
 十七の時分、日本橋のさる呉服問屋の若旦那に見初められて嫁いでいったのだが、亭主が店の女中と深間になり、そちらに子までできてしまい、わずか二年半で離縁されて戻ってきた。
 それでも健気に泣き言一つ洩らさず、くるくると店に出て働いているお順は、人の心を打った。〝いっぷく〟に帰ってきて半年後、お順の幼なじみの寛(かん)助(すけ)とかいう若い大工がそんなお順に恋心を打ち明け、お順は今年の二月、梅の花が咲く頃に再び嫁いでいった。
 清七にしても、お順には幸せになって貰いたいとは思うけれど、そのために喜平が自分の再婚にまで要らぬお節介をしてくるとなれば、話は別だ。
―おみの、太助。
 清七は心の中で亡くした女房と伜の名をそっと呼ぶ。その拍子に、おみのの左眼の下に小さな泣きぼくろのある愛らしい顔、生まれてまもない太助の無心な笑顔が瞼に鮮やかに甦った。
―忘れられるわけがねえ、忘れられるはずがねえじゃないか。
 思わず熱いものが込み上げてきて、清七は大きな手のひらで両の眼をゴシゴシとこする。
 あれは、三年前の―丁度、年が明けて早々のことだった。清七の脳裡にあの日の凄惨な光景がまざまざと浮かび上がる。白昼、他人の家に勝手に入り込んでおみのを手込めにした浪人者は、傍らで泣き叫ぶ赤児の太助を煩いとただそれだけの理由で口を押さえ窒息死させたのだ―。
 その浪人瀬田川(せたがわ)亮(りよう)馬(ま)は元はさる藩の藩士であったというが、故あって浪々の身で清七と同じ裏店の住人となった。瀬田川はかねてからおみのに懸想していて、とうとう恋慕の想いに耐えかね、凶行に及んだのだった。
 左官をしている清七は丁度、運悪しく、そのときは留守にしており、おみのは生後二ヵ月になったばかりの太助と二人きりであった。おみのをさんざん陵辱した瀬田川が一刻後、プイと出ていった後、おみのは半狂乱になって太助を抱き上げたが、既に赤児は事切れていた。
 おみのは辱められたこと、我が子を奪われたことを苦にして、その三日後、自ら生命を絶った。まだ十九の若さだった。
 清七は妻を辱め、倅を殺めた瀬田川を逆に絞め殺してやりたいほど憎んだが、生憎とはきとした証拠がない。瀬田川が清七の家に確かに入ってゆくところを見た同じ長屋の住人がその直後、おみのの悲鳴や太助の泣き声を聞いている。
 しかし、その現場を直接見たわけでもなく、瀬田川に真っ向から〝知らぬ〟と突っぱねられれば、自身番に訴えるわけにもゆかない。復讐と怒りの焔に身を灼き焦がしながらも、清七は隣人たちに懸命になだめられ、何とか瀬田川を手にかけずに済んだ。
 我が子太助の野辺送りの翌日、ひっそりと亡くなったおみのが哀れでならなかった。おみのは、長屋の近くの川に身を投げて死んだのだ。瀬田川亮馬は仏罰が当たったのか、頻繁に通っていた賭場で諍いに巻き込まれて亡くなった。おみのが入水自殺してから一年後のことだ。
 清七は小さな息を吐いた。元々、酒など呑んでいないのだから、高揚している気分なぞ容易くしぼんでしまう。おみのや太助が亡くなるまでは、清七もそこそこは呑める質であった。
 だが、恋女房と倅を亡くしてからというもの、好きだった酒も全く身体が受けつけなくなってしまった。少しでも口にすると、忽ち吐き気がして、全部吐いてしまうのだ。
―なあ、おみの。俺はどうしたら良い?
 清七は川べりの人気のないひっそりとした小道を歩きながら、亡くなった妻に問いかける。
 おみのと太助が死んでから、清七の刻は止まったままだ。何をしていても、おみのの笑顔が、太助の寝顔が眼の前をちらついて消えない。朝が来れば、布団から出て飯を食べ、仕事には出かけるが、所詮は身体が機械的に動いているだけのことで、心は死んだようなものであった。
 仕事帰りに馴染みの〝いっぷく〟に寄って、夕飯を食べ、顔見知りと世間話にでも興じれば、いっときは忘れられるが、こうして店を出て一人になれば、おみのと太助のことをまた、思い出す。
 清七の心は次第に重くなる。この場所を通りかかると、いつものことだ。―おみのが身を投げて亡くなったのが、この川であった。
 江戸の外れを流れる名前とて知られぬ小さな川。この川は一見流れが緩やかに見えるが、存外に急で底も深い。
 おみのは、この川にかかる橋から川へと真っすぐに身を躍らせたのだ。おみのが変わり果てた姿で発見されたのは、夕刻のことだった。気が付いた通行人が人を呼び、駆けつけた泳ぎの達者な男がすぐに川に飛び込んで引き上げてくれたのだが、時既に遅く、おみのは亡くなっていた。
―おみのォ、おみのォ、お願いだ、もう一度眼を開けてくれ!!
 女房の名を呼びながら、必死でそれこそ狂ったようにおみののか細い身体を揺さぶり続けても、おみのは二度と息を吹き返さなかった。次第に冷たくなってゆく身体をかき抱きながら、紫色になってゆく唇に触れながら、清七は男泣きに身を揉んで泣いた。
 この界隈を通りかかると、いやでも三年前の哀しい出来事を思い出す。この辺りは昼間でも滅多と人通りがなく、このような夜更けともなれば、尚更、人影どころか犬の仔一匹見当たらない。
 和泉橋と呼ばれる小さな橋の上手が老中松平越中守を初めとする名だたる旗本や大名の屋敷が立ち並んでいる和泉橋町、閑静な武家屋敷町である。対する下手は町人町と呼ばれ、その名のごとく、錚々たる大店が軒を連ね、大通りをあまたの人々が行き交う活気溢れる商人の町であった。
 この小さな橋一つを隔てて全く異なる二つの世界が存在しているかの様相を呈している。むろん、清七の暮らす長屋は町人町の外れにあった。