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夢の唄~花のように風のように生きて~・弐

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 定市は何も言わずに小さな産着を眺めている。やがて、その産着を無造作にポンと放った。まるで、要らない物を捨てるような投げ方だった。
―やはり、この男にとって、子どもは取るに足らない存在なのだ。
 判ってはいたけれど、改めて思い知らされてみると、哀しかった。
 自分はこの男に何を期待していたというのだろう。お千香を慰みものとしか見てはいない男に。
 定市がお千香を見た。
「今日は顔色も良いようだな」
 その眼が薄く欲情に翳っている。お千香を求める時、定市は大抵こんな眼をする。そのことを、お千香は知っていた。
 お千香の中で本能的な恐怖が渦巻いた。
「旦那さま」
 震える声で言うと、定市が近づいてきた。
「なあ、一度くらい構わねえだろう? こんなに元気そうになったんだ」
「でも、お医者さまがそのようなことはしてはならないと」
 お千香は、後方へ後ずさった。
 この男が自分の部屋を訪れたのは、やはり、お千香を抱くためだったのか。哀しみ、淋しさ、やるせなさがせめぎ合う。
「大丈夫さ。たったの一度きりだ。私はもう辛抱できねえんだ。このひと月、ずっと我慢してきたんだぜ、ここらで一度くらい構やしねえじゃないか、な?」
 次の瞬間、お千香は定市の肩に担ぎ上げられた。
「いやー」
 お千香は身をよじった。
 と、丁度部屋に入ってきたおみつが叫び声を上げた。
「旦那さま、何をなさいます?」
「見てのとおりだ。お千香を私の部屋に連れてゆく」
「お待ち下さいませ。今、お嬢さま―お内儀(かみ)さんのお身体にご負担がかかれば、お生命にも拘わります。お医師もそう申されたとお聞きしています。どうか、どうか、今回は、おとどまり下さい」
 おみつは必死の形相で定市に取りすがった。この前はお千香を守れなかったけれど、今度こそ生命に代えても、お千香の身を守るのだと、おみつは一途に思い詰めていた。
「煩いッ」
 定市が着物の裾を掴むおみつを脚で蹴り上げた。
「あっ」
 おみつが悲鳴を上げて転がる。その拍子に頭を打ち付けたらしく、動かなくなった。
「おみつ、おみつ?」
 お千香が泣きながら乳母の名を呼んだ。
「人殺しッ、放して、おみつが、おみつが」
 お千香は懸命におみつに手をさしのべた。
「そんなことはどうでも良い。お前は私と一緒に来るんだ」
 お千香は定市に担がれたまま、主部屋へと連れてゆかれた。途中、廊下ですれ違った女中が愕いたように眼を見開いたが、定市に睨まれ、慌てて頭を下げて通り過ぎていった。
 泣き叫ぶお千香を定市は昼日中から寝間に連れ込もうとしている。その様子は誰が見ても尋常ではなかった。
 主部屋の手前で、大番頭の茂平が色を失って駆けつけてきた。大方、あの若い女中が知らせたのに相違ない。
「旦那さま、何をなさるおつもりですか」
 かつては大番頭として手代頭の定市にも睨みをきかせた茂平だが、いかにせん、今は定市は美濃屋の主である。
 腰を低くして訊ねると、定市が鼻で嗤った。
「知れたこと、お千香を部屋に連れてゆくのだ。それが、どうかしたか?」
「旦那さま、お内儀さんは今、大事なお身体にございます。何より、お内儀さんに宿っておられるのは、旦那さまのお子さまではありませんか。どうか、何とぞ、今日だけはお許し下さいませ」
 定市がお千香を抱くつもりなのは明らかだ。茂平は何とか定市に翻意させようと、懸命に取りなした。気遣わしげにお千香を見ると、定市に担がれたお千香が茂平に縋るような眼を向けた。
「茂平―」
 その瞳には涙が一杯溜まっている。
「旦那さま、どうか、今回ばかりはお内儀さんをそっとしておいて差し上げて下さいませんか」
 茂平はもう一度説得を試みようとした。
「乳母といい、お前といい、こうるせえ奴らばかりだな」
 定市が憮然とした面持ちで言い、顎をしゃくった。
「お前を呼んだ憶えはない、下がりなさい。夕刻、深川で寄合があるから、出かける。それまでは誰もここに近づかないようにと申し伝えておいてくれ」
「―かしこまりました」
 茂平が悔しげな表情で頭を下げた。

 ひんやりとした畳の感触がむき出しの素肌に触れ、お千香は身震いした。
 涙の滲んだ眼に、欲望で双眸を薄く曇らせた定市の貌がぼやけていた。
 寝間に連れ込まれたお千香の着物を定市は狂ったように脱がせていった。
「お千香、お前も茂平と同じで、私を所詮奉公人上がりだと侮っているんだろう」
 間近に迫った定市が苛立った声で言う。
 お千香は夢中で首を振った。
「だが、まぁ良い。私は今やこの店の正真正銘の主、美濃屋の身代とお前と二つとも手に入れた。お前はずっと私の物だ」
 熱を宿した唇がお千香の唇を塞いだ。
 吐息が首筋にかかるのを、お千香は唇を噛みしめて耐えた。
 涙が止まらない。美濃屋に帰ってきて、やっと穏やかで静かな日々を過ごせると思っていたのに、それは儚い夢にすぎなかった。
 本当に、自分の居場所はどこにもないのだろうか。どこまで逃げれば、この男の手の届かぬ場所にゆけるのだろう。
―また捕まってしまった―。
 お千香の眼から溢れた涙が頬をつたう。
 次の瞬間、深く強く刺し貫かれ、お千香はか細い身体を弓なりにのけぞらせた。
 形の良い唇から、あえかな声が洩れる。
 定市は耐えかねたように、その花の唇を塞いだ。

 その夜半、寄合に出た定市は、深川の料亭を後にしようとしていた。供についてきたのは、手代の平助、かつて丁稚として大番頭の茂平には算術算盤、読み書き、商人としてのいろはを叩き込まれた仲間でもある。
 平助が提灯で足許を照らし、その後ろを定市が歩く。定市の両腕には後生大切に抱えている品々があった。平助に持たせようともせず自ら抱えて歩くとは、よほど大切なものに相違ない。
 静まり返った夜の道を少し歩いたところで、向こうから駆けてくる人影を認めた。
「旦那さま、旦那さま」
 脱兎のように走ってくるのは、やはり手代の知次郎である。
「どうしました、何かあったのかい」
 いかにも大店の主らしい鷹揚な物言いで訊ねると、知次郎は息を切らしながら訴えた。
「お内儀さんが、大変でございます。とにかく、早くお帰り下さいまし」
 どちらかといえば普段からのんびりとした知次郎が今日ばかりは切羽詰まった様子だ。その緊張ぶりに、ただ事ではないと悟った。
 平助と共に夜の中をひた走りに走って戻ってくると、大番頭茂平が出迎えた。沈痛な表情で頭を垂れ案内したのは、奥のお千香の部屋だった。
 お千香は居間に敷いた布団に横たわっていた。花のような顔に、白い布が掛かっている。
「何故、こんなことになった。お前らがついていながら、どうして、お千香を死なせた?」
 定市が怒りに震える声で茂平に言った。
 茂平は、お千香を赤ん坊の頃から知っている。老いた大番頭は、定市から少し離れた場所にうなだれて座っていた。
「私どもの落ち度は深くお詫び申し上げます。しかしながら、どうしようもありませんでした。お内儀さんは、おん自らお生命を絶たれたのです」
 刹那、定市が信じられないといった表情で、茂平を見た。
「嘘を言え、お千香が自害などするはずがない。もうじき、赤ん坊が生まれるはずだったんだぞ?」