夢の唄~花のように風のように生きて~・弐
茂平はうつむいたまま、低い声で応えた。
「このお部屋で、懐剣で喉をひと突きにされておりました。暗くなったので、行灯の明かりを入れにきた女中が発見したのですが、そのときには、もう事切れておられました。お覚悟の上のことのようで、白装束に身を包まれて―見事なご最後でございました」
最後は声を詰まらせながら茂平は語った。
定市の手から、ずっと大事に抱えてきた品々が落ちた。物言わぬお千香の枕辺に落ちて転がったのは、数えきれぬほどの子どもの玩具であった。でんでん太鼓に人形、様々な幼児の歓びそうなおもちゃが所狭しと転がっていた。
定市は寄合の前に、玩具屋で子どもの玩具を腕に抱えきれないほど買い求めていたのである。
―お子さまは、男のお子さんですか、女のお子さんですか?
男児、女児の玩具を取り混ぜて買う定市に、店主が訊いてきたものだった。
定市はそれに対しては微笑するだけだった。
だが、その瞬間の定市の表情は、紛れもなく、まもなく若い父親となる歓びに溢れていた。
「―旦那さま、旦那さま?」
ずっと呼ばれていたのにも気づかず、定市は虚ろな視線を茂平に向けた。生まれてくる赤子のために玩具を買ったのは、今日の夕刻のことだった。まだ早いとは思ったけれど、もしかしたら、お千香も少しは歓んでくれるかもしれないと甘い期待に胸を弾ませた。
それなのに、赤ん坊はもういない。お千香までもいなくなってしまった。
「旦那さま、お内儀さんがずっと最後まで握りしめておいでになったものです」
茂平がそっと差し出したのは、一枚の小さな産着だった。―今日、お千香が大切そうに縫っていたものだ。
定市は手渡されるままに産着を手にした。
その産着を茫然として見つめる定市が呟いた。
「お前は、そんなに私から逃げたかったのか」
定市が産着を握りしめて男泣きに泣いた。
お千香の部屋の前の蝋梅は、その夜も艶やかな花を咲かせていた。
お千香の死から二ヶ月後。
かつてお千香が寝起きしていた部屋の縁側に座り、おみつが文を読んでいた。
庭には蝋梅に代わって、薄紅色の桜の花が今を盛りと咲き誇っている。時折春の風が吹くたびに、淡い紅色の花びらが舞い、それはひらひらと漂い、おみつの肩や髪に舞い降りた。
おみつ、この文をお前が読んでいる頃には、私はもうこの世にはいないと思います。
私には、もうこの広い世の中でどこにも行き場がありません。
生きている限り、定市に追いかけられ捕まえられるのです。これからも、私はあの人にずっとつきまとわれることでしょう。でも、もういや。あんな人には触られたくもない。
私がいなくなれば、あの人もあの世までは追いかけてこられないでしょう。心残りなのは、お腹の子のことです。折角生命を授かり、元気にこの世に生まれてこようとしているのに、私は酷い母親になろうとしています。
でも、子どもには可哀想なことをすると思うけれど、どうしようもないのです。
さんざん考えた末、私が選ぶ道はこれしかないと思いました。どうか、身体に気をつけて、長生きして下さい。可愛がって育ててくれたのに、先立つことを許してね。
千香
お千香らしい、流れるような手跡で遺書は書かれていた。この手紙は、お千香の死後二ヶ月を経て、漸く文箱の中から発見された。というのも、昨日になって、定市がやっとお千香の身の回りの遺品を片付けるようにと言ったからだ。
定市はどうやらお千香の部屋を片付ける気にはなれず、生前使っていた居間と続きの寝室は、お千香が生きていた頃そのままの状態に保つように命じ、おみつはそのとおりにしてきた。だが、漸く定市も少しは心の踏ん切りがついたのだろう。
二ヶ月前のあの日、お千香が定市の寝間に連れてゆかれていた間、おみつは自室で横になっていた。定市を止めようとして蹴り上げられた際に、頭をしたたか打ち、昏倒してしまったのだ。もし、その時、自分が生命に代えても定市の暴挙を止めることができていればと、おみつは今更ながらに口惜しい。意識を取り戻したのは、急を知らせに若い女中が呼びにきたときのことで、その時既にお千香はこの部屋で生命を絶った後であった。
この部屋は、今も二ヶ月前の、お千香が生きていた頃と少しも変わっていない。
おみつでさえ、こうしていると、ふいにどこかから、お千香の声が聞こえてくるような気がしてならない。
おみつは今更ながらに思う。定市は、お千香に心底から惚れていたのだ。お千香の秘密を知ってもなお、定市の心が変わることはなかった。愛するがあまりに相手を縛り、欲望に溺れ、結果として、それがお千香の心身を傷つけることになった。恐らく、定市がお千香に示した度を超えた愛情は、定市なりの愛し方であったのだろう。
世の中にはよく相性の悪い人同士が必ずいるものだというけれど、定市とお千香は、いかにしても相容れぬ宿命を持った二人だったのかもしれない。
お千香は生まれながらに哀しい運命を背負い、更にその上、苛酷な人生を生きねばなららない哀れな娘であった。おみつは、お千香が最後に書いた文に頬ずりをしてから、静かに二つに破った。
お千香は手紙の終わりに書いていたのだ。
この遺書を読んだなら、必ず人眼につかぬ方法で処分して欲しいと。
おみつは手紙を更に細かく破ってゆく。
その時、突如として一陣の風が吹き抜け、おみつの手からばらばらになった手紙の断片を奪い去っていった。
それは、あたかも花びらが風に舞い踊るように、ひらひらと風に巻き上げられ、空の彼方へと運ばれて消えた。
―おみつ。
ふいに背後でお千香の声を聞いたような気がして、おみつは振り返った。
もちろん、誰もいるはずはない。ただ、お千香がありしときのまま、文机の上には硯や文箱、筆がきちんと整頓されて置いてある。
お千香はよくこの文机に向かって書き物をしていたものだった。
何を書いているのかと一度訊ねたら、恥ずかしそうに隠してしまった。
その少し後で、あれは恋の唄を書き付けていたのだと照れくさそうな顔で教えてくれた。
お千香が幼い頃、おみつが子守唄代わりに歌った唄だという。
―遠く愛しき恋の歌
たゆまずめぐる紡車
もつれてめぐる夢の唄―
少しはにかんだような初々しい笑顔で耳許でそう囁いたのは、お千香が十歳の頃のことだった。
―おみつ、おみつ。
また呼ばれたような気がして、おみつは淡く微笑んだ。
「お嬢さま、お嬢さまのことは、このみつ、終生忘れません。お嬢さまとご一緒に過ごしたこの十七年間は、みつにとっても得難い至福のときにございましたよ」
心の中のお千香にそっと呼びかける。
おみつは明日、美濃屋を去ることになっている。お千香の四十九日の法要も一昨日、滞りなく済ませた今、おみつがここに残る理由は何もない。
おみつは、もう一度、眼に灼きつけておくようにゆっくりとお千香の居間を見回した。
遠く愛しき恋の歌
たゆまずめぐる紡車
もつれてめぐる夢の歌
作品名:夢の唄~花のように風のように生きて~・弐 作家名:東 めぐみ