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夢の唄~花のように風のように生きて~・弐

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 すべては一年前の夜、おみつが留守をした隙に起こったのだ。もし自分があの夜もお千香の傍について眠っていてやれば、お千香が定市に手込めにされることもなったはずだ。
 おみつは、我が子とも思って大切に育ててきたお千香が不憫でならなかった。
 それにしても、何ゆえ、定市は、お千香がこんなに衰弱するまで放っておいたのか。
 おみつは定市を恨んだ。事ここに至り、美濃屋の奉公人たちは、今戸の寮に主が囲っていたという女がお千香であることを知った。
 むろん、定市は何も言わなかったが、大八車を引いて今戸までお千香を迎えにいったのは、美濃屋の手代二人であった。手代たちは口々に今戸の寮からお千香を運んで出てきたときの様子を語った。
 どうやら、お千香は寮の奥まった一室に閉じ込められていたらしい。手代がそう話すと、一同は愕き呆れると共に、定市のお千香への並外れた執心を空恐ろしく思った。
 手代頭であった頃は、ただ寡黙で真面目な若者といった印象しかなかった定市には実は偏執狂的な意外な一面があったのだ。
 今戸の寮番は口のきけぬ老爺が一人ひっそりと暮らしているだけだし、寮番から秘事が露見することもなかった。何故、定市がわざわざ女房であるお千香を今戸の寮に住まわせる必要があったのか。その点については様々な憶測が乱れ飛んだ。
 大体、お千香の失跡自体が謎に包まれていたのだ。とはいえ、お千香が定市を嫌っていたことも奉公人たちは知らぬわけではない。ましてや、あの運命の夜、お千香の寝間から悲鳴や助けを求めて泣き叫ぶ声が洩れていたのを耳にしていた女中もいたのだ。
 あの夜、お千香の身に何が起こったかを推測するのは容易であった。ましてや、お千香が失踪したのがその翌朝となれば、原因がそも誰に―他ならぬ定市にあることは見当がつく。
 愕くべきことに、一年ぶりに戻ってきたお千香の腹は膨らんでいた。まだ、たいして目立ちはしないが、身ごもっていることは明らかだ。その事実からも、お千香が今戸でどのような日々―扱いを受けていたのかは、おおよその推量はできた。
 
 お千香は淡い微笑を浮かべて、庭の蝋(ろう)梅(ばい)を眺めていた。
 既に暦は如月に変わっていた。
 お千香の部屋の障子は今、すべて開け放たれ、お千香は縁側に座していた。小庭の蝋梅は黄色の花をたくさん咲かせ、今を盛りと咲き誇っている。こうして障子を開け放していると、蝋梅の甘い香りが風に乗って運ばれてくる。
 二月とはいえ、今日は春を思わせるほどの陽気であった。こうしていても、寒さはさほどに感じられない。
 ふと視線を動かし空を見上げれば、薄い雲がたなびく空に角凧が浮かんでいる。どこかの悪戯好きの男の子が得意顔で凧を上げているのだろうかと想像してみる。
 子ども―、つい最近まで考えてみたこともなく、本音を言えば、考えたくもなかったことだ。あの男、定市の血を引く子が日々、自分の胎内で育ちつつあるのか考えただけで、おぞましい想いに囚われた。
 今戸の寮に医者が来た時、定市はお千香の懐妊を知らされても、別段愕きもしなかった。もしかしたら、定市は、とうに妊娠を知っていたのかもしれない。それにつけても、幼く、何も知らぬ我が身が情けなかった。男の定市さえ気づいていたというのに、お千香は何かの病にかかっているとしか考えられなかった。
 けれど、お千香が身ごもっていると知りながら、定市は、それ以後も夜毎、お千香の身体を苛み、弄んだのだろうか。だとすれば、定市にとっては、お千香は本当に快楽の対象でしかないのだろう。身重のお千香が悪阻で吐き気を訴えても、どんなに具合が悪いからと嫌がっても、定市はけして許してはくれなかった。
 定市の腕を逃れ、部屋の隅でうずくまって吐きそうになっているお千香をあの男は抱き上げて床の中に連れ戻し、お千香を貫いた。
 定市にとっては、お千香も腹の赤子も所詮は、何の意味も持たないのかもしれない。そう思うと、一抹の淋しさを感じずにはいられなかった。腹の子は、お千香には定市から受けた辱めの記憶を呼び覚ますものでしかない。そう思ってきたが、美濃屋に帰ってきて穏やかな日々の中に身を置くようになって、その心境も変わった。
 お千香の手には今、縫いかけの産着がある。おみつに久しぶりに再会し、母の懐に抱かれるような安心感を憶えたせいであろうか、漸く、お千香の中で腹の子を我が子として認めることができるようになり始めていた。
 定市に陵辱され続け、その果てに身ごもった子は、お千香にとって忌まわしい想い出を呼び起こす存在でしかなかったのだ。
 それが、美濃屋に戻ってきて、お千香は遅まきながら母性本能に目覚めたのだった。
 お千香はもう殆どできあがっている産着を愛おしげに見つめた。この小さな産着を見ているだけで、切ないような愛おしさが奥底から込み上げてくる。これを着る赤子は一体、どんな子だろうかと、この腕に抱きしめる日を待ち遠しく思えるようにさえなるのだった。
 美濃屋に戻ってきて、良かったと思う。やはり、ここは、この家は、お千香にとって紛れもない生まれ育った場所であった。
 赤子が誰に似ているか―、そのことについては、お千香は一切考えたくもなかった。定市そっくりの子なんて、想像したくもない。
 美濃屋に帰ってきて以来、定市とは殆ど顔を合わせることもなく過ごしている。定市の方は大店の主人として色々と商用で忙しく、出かけてばかりいるようだ。夜は寄合とかで、寄合の後は吉原に繰り出しているようで、お千香は定市がこのまま吉原の女郎に夢中になってくれることを祈るばかりだった。
 もうこれで、定市に指一本触れられることもないだろうと思うと、心の底から安堵感が込み上げてくる。時折、ふっとした隙に、徳松の笑顔が脳裏をよぎるけれど、徳松は既に遠い人であった。定市に穢され、あまつさえ、その子を身ごもった今、最早、徳松に合わせる顔すらない。
 お千香は未練を振り払うように、首を振った。
 その時、背後の襖が開いた。お千香は明るい声で言った。
「おみつなの?」
 応(いら)えはない。訝しく思って振り返ったお千香の前に佇んでいたのは定市であった。
 お千香の顔色が見る間に青ざめてゆく。
「まるで幽霊を見たような顔をしてるな」
 定市が皮肉げに口許を歪めた。
「何か―ご用でしょうか」
 声が、震える。
 定市の眉がつり上がった。
「用がなければ、ここに来てはいけないのか?」
「いえ、そういうことでは」
 お千香は蒼白な顔で応えた。
 酷薄な光を宿した眼がお千香を射貫くように見据えてくる。定市のねっとりとした視線がお千香の腹部に注がれていた。
 美濃屋に戻ってひと月余り、六月(むつき)に入った腹の赤ん坊は順調に育ち、お千香の腹も外からでもはっきりと判るようになった。時折、赤子が腹を蹴るのも自覚できるほどだ。
 お千香は、我知らず身体が震え始めた。
「何をしていたんだ?」
 定市が視線を動かし、お千香の手許を見た。
 咄嗟に後ろ手に隠そうとしたのを、定市が有無を言わさず取り上げる。
「あ―、止めて下さい」
 お千香が手を伸ばして取り返そうとしても、定市は返してはくれなかった。
「―」