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夢の唄~花のように風のように生きて~・弐

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 夕刻になると、粋なこざっぱりとした着流し姿でいそいそと今戸に出かけてゆく定市の姿を皆が苦々しい想いで見ていた。今戸に出かけた日、定市は大抵は朝帰りであった。時には翌日、日が高くなるまで戻らないこともある。
 まさか、その今戸の寮に囲われているという女が行方知れずとなっているお千香だと思う者は誰一人としていなかった。
 冬のある夜のことであった。
 いつものように定市が訪れたのは黄昏刻であった。静まり返った閨の中は、千尋の海の底のようだ。定市は万事に派手好みで、夜具も紅絹で、お千香が着せられているのも緋色の長襦袢であった。まるで遊女屋のような室内で、女郎のようななりをさせたお千香を抱くのである。
 今戸に連れてこられたその日から、お千香は一切の抵抗を止めた。が、最初に毅然と定市に言ったとおり、いくら脚はひらいても、心だけはけして男にひらこうとはしなかった。そんなお千香に苛立ち、ますます煽られ、定市はお千香に溺れ、のめり込んでゆく。お千香を靡かせようと、一晩中責め立ててみても、お千香は絶対に陥落しなかった。
 定市の愛撫にも髪の毛ひと筋乱すことなく、あえぎ声上げることすらない。
 だが、その夜は違った。
 定市の執拗な愛撫は最近、常軌を逸していると思えるときがある。お千香を殊更責め立て、立つことさえできないほど苛むことも度々だった。
 お千香の白い肌を定市の唇が執拗に辿る。 首筋から鎖骨、乳房、と次第に下に降りてゆく。この頃には、お千香の胸のふくらみは随分と豊かになっていた。その乳房を存分に愛撫された後、定市に導かれてその屈強な身体の上に腰を降ろした刹那、お千香は呻いた。
 深々と貫かれた箇所から、ひそやかな快感が生まれ、身体中を駆け抜けてゆく。
「お千香、きれいだ」
 定市の呟きで、お千香は初めて我に返った。定市の上にまたがり、あられもない姿で腰をくねらせる自分に気づいたのだ。
 お千香は愕然とした。
 自分は、ただの売女になってしまった。身体を弄ばれるだけならまだしも、こんな男に抱かれて歓びの声を淫らに上げるとは。
 お千香の中で言いしれぬ哀しみが生まれた。この夜から、お千香は本気で死を考えるようになった。
 その年も終わり、新しい年が来た。しかし、お千香の暮らしは何も変わりはしない。
 定市の訪れを待ち、ただ抱かれるだけの日々が続いていた。美濃屋を出てから、既に一年が経とうとしていた。
 新年の松の内も明け、正月気分もひと段落したある夜、いつものように定市が訪れた。
 待ちかねたようにお千香の帯を解き、着物をはぎ取ってゆく。荒々しく唇を吸われた時、烈しい吐き気が胃の腑の底からせり上がってきた。
 お千香は定市の逞しい身体を押しのけ、部屋の隅に這っていった。吐き気は依然として治まらず、お千香は涙目になるまで咳き込み続けた。
「どうした?」
 定市が近寄ってきて、お千香の肩に手をかけた。お千香は海老のように背を折り曲げ、ひたすら咳き込み続けている。
「もしや、お前―」
 定市は何かを感じたらしい。だが、お千香はそれどころではなく、ただ苦しいばかりであった。
 しばらくして漸く吐き気が治まり、お千香は毎度のように定市に抱かれた。その吐き気は頑固にもお千香をそれ以降、しょっちゅう悩ませることになった。
 自分はどこか悪いのか、何かの病気なのだろうか、お千香はそんな風に考えた。いっそのこと、このまま死ぬのも悪くはない。
 定市が来ないときは、日がなボウとして日を過ごすしかすべのない日々にも辟易していたし、男の慰みものになるだけの自分にも嫌気がさしていた。
 病で死ぬのなら、それも幸せというものかもしれないと、投げやりに考えた。
 それでも、定市は変わらず三日ごとに通ってきて、お千香と臥所を共にする。情事の最中に突然猛烈な吐き気が襲ってくることがあっても、定市は躊躇せずお千香を責め苛んだ。
 やはり、この男にとって、自分はただの性欲のはけ口にすぎないのだ。お千香はそのことをやるせなく思った。どうせ端からこの男に優しさなど期待はしていなかったけれど、だだ肉欲のためだけに閉じ込められ、慰みものにされる自分が哀れだと思った。
 自分は一体、何のために生まれてきたのだろうか。
 そんな想いに囚われることが多くなった。
 この頃、お千香は自分が次第に透明になってゆくような気がしている。透明―心が透き通って、自分という人間の存在そのものが無に還ってゆくように思えるのだ。
 烈しい嘔吐感に苛まれるようになって、お千香はひと回り以上も痩せた。元々白磁のようであったすべらかな膚はますます白くなり、透き通るようであった。
 一月も十日を過ぎたその日、定市が老齢の男を今戸の寮に連れてきた。どうやら、その男は医者らしく、お千香をひととおり診ると、淡々と告げた。
「ご懐妊ですな。もう五ヶ月に入っておられますぞ」
 その言葉に、お千香は少なからぬ衝撃を受けた。傍らの定市は予想外にも愕いた風はなかった。医者は、お千香当人には告げなかったものの、お千香の身体が相当に衰弱していることを定市に宣告した。
―このまま放置しておいては、取り返しのつかぬ仕儀になりましょう。このような場所に置いておかれるよりは、美濃屋へお連れになって、ごゆっくりとご養生させて差し上げた方がよろしいでしょうな。
 「それから」と、帰り際に定市をつと振り向いて言った。
―閨での房事はほどほどになさるがよろしいでしょう。ご出産までは、どんなことがあっても、ご新造と夫婦の交わりをしてはなりませぬぞ。これ以上、お身体に負担をかけぬようにするのが第一。それでなくとも、あの弱りようでは、産み月までお身体がもつかどうか危ぶまれます。
 この老人は、昔はさる藩の御殿医をも務めたことがあった。今は隠居して悠々自適に暮らしているところ、定市が大店美濃屋の名前を持ち出し、金を積んで、わざわざ往診に来て貰ったのだ。
 老医師は、すべてをお見通しのようであった。定市がお千香を今戸の寮に監禁して、陵辱の限りを尽くしていることまでをも見透かされているようでさえある。医者は、定市のお千香への異常なまでの執着を見抜いた上で、暗に度を過ぎた営みがお千香の健康をここまで狂わせたのだと指摘したのであった。
 このまま閨での交わりを続ければ、腹の子はもとよりお千香の生命まで保証はできぬと、医師は穏やかではあるが、はっきりと定市に告げ、駕籠に乗って帰っていった。
 その翌日、お千香は一年ぶりに懐かしい我が家へと帰った。最早駕籠に乗る体力もなく、戸板に乗せられ、大八車に揺られての帰宅であった。大番頭の茂平初め、奉公人一同が店先で居並んで出迎えた。戸板に乗せられたお千香は可憐な花のような面影はあったものの、まるで別人のように弱っていた。
 五十を過ぎようかという茂平の眼には涙が浮かんでおり、他の者たちも皆、痛ましげに変わり果てたお千香を見守った。
 お千香の傍に終始付き添うのは、むろん乳母のおみつである。おみつは泣きながら、お千香の髪を撫でた。
「お労しい、何故、こんなことに」