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夢の唄~花のように風のように生きて~・弐

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 降りるように言われ、お千香は地面に降り立った。ここは―。
 お千香は周囲を見回し、小首を傾げた。
 前方に見えるのは、美濃屋の所有となっている今戸の寮であった。いわゆる別荘のようなものだ。付近には、やはり似たような商家の寮が点在しているが、人家はあまり見当たらない。要するに、平素から人が住んでいる家はこの界隈には殆どないと言って良いのだ。
 寮番といって、管理人のような役目を果たす者だけが常駐しており、普段は寮番以外は誰もいない。昼間でも人気のない、良くいえば侘びのある風情の場所であり、悪く言えば寂れた淋しい場所であった。
 こんなところに医者など住んでいただろうか。お千香は訝しく思い、しきりに記憶を手繰り寄せようとした。成長してからは滅多と来ることはなかったけれど、子どもの時分はよく両親に連れられて遊びにきていた懐かしい場所だ。
 だが、いくら考えても、この付近に医者などいなかった―。それとも、最近になって医者が移り住んできたものか。
 いや、とにかく、そんなことよりも徳松の容態を確かめるのが先だ。お千香は逸る心を抑えた。医者の住まいがどこなのか駕籠かきに訊ねようとする前に、駕籠は猛烈な速度で走り去っていった。
 お千香は唖然として駕籠が走り去ってゆくのを眺めた。その時。
 ふいに背後から抱きすくめられた。
「―!」
 お千香は狼狽して抵抗しようとした。が、すぐに口許を手拭いのようなもので覆われ、声を出せなくなってしまった。つんとする刺激臭のようなものが鼻腔に入り込んできたかと思うと、くらりと視界が揺れた。頭の芯が痺れ、意識がフウと遠のいてゆく。
 それでもなお、残った力で抗おうとすると、布がいっそう強く押しつけられ、息もできなくなった。お千香の意識はそのまま暗い闇の中に飲み込まれていった。

 また、夢を見ていた。
 いつもと同じ夢だ。暗闇の中を何ものかに追われ、逃げようと懸命に駆けている。
 いくら逃げようとしても、ついには追いつかれてしまう。振り向いた刹那、そこにあるのは、けして逢いたくはない定市の顔だった。
 まるで重くのしかかられているような圧迫感に、お千香は喘いだ。
―苦しい、助けて。
 自分の上にのしかかる物を何とか押しのけようと、めくら滅法に手を振り回してみても、ビクともしない。
 あまりの苦悶にもがき、声を上げた。
 次の瞬間、突然、意識が戻った。まだ頭はじんと痺れているようだが、眼はちゃんと見える。だが、眼を開いた刹那、お千香は、これが現(うつつ)のこととは信じられなかった。
 自分は一糸まとわぬ姿で紅絹の布団に転がっていて、その上に定市が乗っていた。両手は上でまとめて縛られている。
「あ―」
 お千香は絶望的な気持ちで定市の顔を見上げた。
 騙されたのだ。徳松は怪我などしていなかった。今頃は長屋に帰ってきて、お千香がいないのを心配しているだろう。
「何を考えている」
 覆い被さった定市が静かな声で言った。
 お千香は顔を背けた。こんな男と話したくもない。顔を見るのさえ厭わしかった。
 なんて卑劣な男。
「私の顔を見ろ」
 言われても、お千香は頑なに顔を背けたままだった。
「あの男のことを考えているのか」
 不気味なほど静かな声音であった。
「お前は誰にも渡さねえ。やっと手に入れた私のものだ。あの男のことは忘れろ」
 その時初めて、お千香は定市を見た。
「身体だけなら、いくらでも自由にすれば良い。でも、心までは絶対に渡さない。あなたの思い通りになんかさせないから」
 相変わらず定市を怖くて仕方なかったけれど、お千香はキッとしたまなざしを向けて言った。
「お前―」
 定市が愕いたようにお千香を見る。
 お千香はそれだけ言うと、プイとそっぽを向いた。
「忘れろ、私が忘れさせてやる。あんな男のことなんか忘れるんだ」
 定市が凄みのある声で囁く。お千香は固く眼を閉じ、定市のすべてを排除した。
「お前がそこまで意地を張るというのなら、私も遠慮はしねえ」
 刹那、両脚を押し広げられ、高く持ち上げられたかと思うと、鋭い痛みを下半身に感じた。
 半年前のあの夜の記憶がまざまざと蘇る。
 泣いて抗うお千香を欲しいままに犯した定市の残忍さを思い出す。
 お千香は歯を食いしばった。絶対に負けるものか。たとえ身体はどれだけ穢されようと、心はお千香だけのもの、この男の自由にはさせない、ならない。
 お千香は溢れようとする涙を瞼の裏で乾かした。涙を流せば、定市の思うつぼだろう。
 唇を噛みしめ、涙をこらえて、ただひたすら身体中を這い回る男の指のおぞましい感触に耐えた。
 それから陵辱の日々が続いた。
 定市は三日おきに今戸に通ってきて、お千香を抱いた。派手な緋色の長襦袢だけの姿で寝室に閉じ込められた。常に用心棒らしい見張りが部屋の前にいて、逃げだそうにも逃げ出せない。どうやら、用心棒は、お千香を騙して駕籠に乗せたあの男のようだ。定市の雇ったならず者らしい。
 食事はきちんと三度届けられたが、部屋の外に出ることは一切許されなかった。
 今戸に来てひと月が経った頃、お千香の身体に変調が起きた。遅すぎる初潮を迎えたのだ。
 定市はこのことを知り、たいそう歓んだ。お千香の身体が女として成熟したことの証だと考えたらしい。
 だが、お千香は哀しい想いに沈んだ。その夜、定市が用意させた赤飯や鯛にも一切手をつけなかった。
 辛いことばかりの中で、季節だけがめぐっていった。やがて秋が終わり、冬が来た。
 この頃には、お千香はもう何かもかもが空しくなっていた。定市に抱かれるためだけに生き、存在しているような自分の人生は一体何なのだろう。
 生きていても意味がないように思え、いっそのこと生命を絶とうかと何度も考えた。しかし、その度に、徳松やおみつの顔が瞼に浮かんだ。生きてさえいれば、いつか大切な人々に逢えるかもしれない。いや、これほど穢された身では最早、徳松の前に出ることはできないかもしれないが、この世に徳松がいると思うだけで、お千香の心は慰められた。 
 おみつは今頃、どうしているだろう。さぞ心配しているに違いない。考えるのは、おみつと徳松のことばかりだった。
 その頃、美濃屋では先代の主政右衛門の女房おさとの法事が行われた。政右衛門の跡を継いで六代目となった定市は堂々とした大店の主人らしい態度で見事にすべてを取り仕切った。誰の眼にも定市が美濃屋の正真正銘の主となったことは明らかだった。
 その席に政右衛門とおさとの一人娘お千香の姿はなかった。お千香は去年の春、かき消すように姿を消したままである。この頃に、美濃屋では芳しからぬ噂が立っていた。定市が今戸の寮に女を囲っているというのだ。
 この噂は、定市が三日にあげず熱心に今戸の寮に通う姿を見た奉公人たちが誰からともなしに囁き始めたものだった。
―先代の旦那さまの忘れ形見、お千香お嬢さまの行方も知れぬというのに、早々と妾を囲うとは何ということだ。
 先代政右衛門が子どもの頃から美濃屋に奉公する大番頭なぞは、そう言って嘆いた。