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夢の唄~花のように風のように生きて~・弐

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 徳松が断じると、定市が怒りに顔を朱に染めた。
「何だと? もう一度言ってみろ」
「ああ、何度でも言ってやるよ、あんたは人間の屑だ」
 言い終わらない中に、徳松の拳が定市の頬に炸裂した。定市は無様によろめき、その場につっ転ぶ。
「とっとと帰りやがれ。もう二度とお千香ちゃんの前に現れるな」
 うずくまったまま頬を押さえる定市に、徳松が怒鳴った。
 定市がゆらりと立ち上がる。
 紅く腫れた右頬を押さえ、定市が恨めしげにお千香を見た。
「このままで済むと思うなよ?」
 捨て科白を残すと、ふらふらと覚束ない足取りで出ていった。
「大丈夫か、お千香ちゃん」
 改めて徳松に問われ、お千香は小さく頷いた。
「手拭いを忘れちまったのに気づいて、途中で引き返してきたんだ。帰ってきて、かえって良かったよ」
 お千香は声を発することもできなくて、ただ頷いた。もし徳松が帰ってこなくて、あのまま定市に連れ帰られていたらと考えただけで、怖ろしさに気が狂いそうだ。
―さんざん弄んで手込めにしてやった女。
 お千香の耳に定市の声が不吉なまじない言葉のようにまとわりつき、離れない。
「徳松さん、私は、あの人の言ったとおりの女なの。あの人にさんざん―」
 涙ながらに言うと、ふわりと抱き寄せられた。次の瞬間、お千香は徳松の広い胸にすっぽりと包み込まれていた。
「良いんだ、それ以上言わなくて良い。たとえ、お前があいつに何をされていようと、過去に何があろうと、お前はお前じゃねえか。お千香ちゃん、俺は今の、そのままのお千香ちゃんに惚れたんだ。何も気にするこたァねえさ。昔のことなんぞ、俺にはどうでも良い」
 お千香は徳松の腕の中で思い切り泣いた。
 そんなお千香を徳松は子どもを見守るように優しくあやす。
 お千香は存分に泣きたいだけ泣いた後、徳松に初めて自分の素性について語った。
 呉服太物問屋美濃屋の一人娘として生まれたこと、父の定めた定市という良人がいること、父の遺言で定市とは形だけの夫婦であったはずなのに、定市がお千香を手込めにしてしまったこと。
 最後に、お千香が自分の身体の秘密を打ち明けようとすると、徳松は人差し指でお千香の唇を押さえた。
「そのことは良い。それも俺は知らねえわけじゃないんだ。だが、お前の過去に何があっても気にならないように、そんなことも俺はどうでも良い。先刻も言ったろ、今の、そのままのお千香ちゃんが良いんだって」
「―徳松さん、私、嬉しい」
 お千香が涙を零すと、徳松は笑った。
「大好きだよ」
 徳松の手がそっとお千香のすべらかな頬に触れる。そのまま顔を持ち上げられたお千香の唇に、静かに徳松の唇が降りてきた。
 まるでかすめるような軽い口づけに、お千香は徳松の心がこもっているように思えた。
「今年中に祝言を挙げよう。棟梁に仲人になって貰えば良い。なに、人別のことは、おいおい片をつけてゆけば良いさ」
 徳松の親方留造の女房は美濃屋には親戚筋になる大店の娘だという。徳松は、不安げなお千香に意外な事実を語った後、こともなげに言った。
「おかみさんを通じてあの男に話をつけて貰って離縁状を書かせるって手もあるからな」
 現実として話がそう上手くゆくとは思えなかった。いくら奉公人上がりとはいえ、今は定市もれきとした美濃屋の主だ。その誇りもあるだろう。親類筋のお店からの申し越しとはいえ、易々と去り状を書くだろうか。が、少なくとも徳松がお千香の不安をいささかなりとも軽くしようとしてくれているのが判った。だから、お千香は微笑んで頷いた。
 そのときの徳松との口づけは、お千香にとって永遠に忘れられぬものとなった―。


《花塵》
 
 それから数日を経た。
 その日の夕刻、お千香は夕飯の支度に張り切っていた。今夜の食卓には大根の煮付け、焼き魚、味噌汁、飯が並んだ。至ってささやかなものだけれど、お千香が腕によりをかけたものばかりだ。
 そろそろ徳松の帰ってくる時刻である。
 お千香は頃合いを見計らい、なるたけ温かいものを徳松に食べて貰いたいと考えている。ゆえに、大抵はその頃に出来上がるように作りにかかるのだ。
 表の腰高が開く音がし、お千香は歓んで振り返った。だが、覗いていたのは、見たこともない男の顔であった。三十前ほどであろうか、どことなく翳を帯びた険のある眼つきが危うい印象を与える。全体的に崩れた雰囲気の漂う男であった。
「あんたは徳松さんの嫁さんかい?」
 唐突に訊ねられ、お千香は少し躊躇った末、頷いた。
「そうか、お千香さんだね?」
 続けざまに問われ、お千香は頷く。
 男がさも深刻そうな表情で言った。
「あんたの亭主が大変なんだよ」
 お千香は眼を見開いた。
「徳松さんがどうかしたんですか?」
 勢い込んで訊ねるお千香に、男がしたり顔で頷いて見せる。
 お千香の胸にたとえようもない不安が押し寄せた。もしや普請場で徳松の身に何かあったというのだろうか。
 徳松は現在、町人町の京屋という呉服太物問屋の改築工事に携わっている。京屋の主人市兵衛はなかなかのやり手の商人と評判だが、市兵衛の母おきよのための隠居所として使う部屋を新たに建て増すというので、留造率いる大工たちが毎日、京屋に出向いている。
「それがな」
 と、男はお千香の興味を引くように、思わせぶりな言い方で口をつぐんだ。
 案の定、お千香の不安はますます大きくなる。しかし、そのときのお千香は徳松に何かあったのかという不安にばかり気を取られていて、男の挙措が芝居がかって、あまりにも不自然すぎることには気づかなかった。
「徳松さんが足場から落ちてしまったんだよ」 男は、お千香の反応を確かめるように、油断ならぬ眼で様子を窺っている。だが、お千香はそんなことにも頓着せず、矢継ぎ早に訊ねた。
「それで、徳松さんの具合は、どんな風なんですか?」
「実は、あっしもよくは知らねえんだ。ただ通りすがりに、医者に運ばれてゆく徳松さんを見かけてねえ。付き添っていた親方に、おかみさんのところまで知らせてくれるように頼まれたんだよ」
「ご親切、心から感謝します。徳松さんが運ばれていったお医者さまというのは、どこなんでしょう?」
 よくよく考えてみれば、妙な話だったのだ。医者に連れてゆくというのなら、まずこの長屋に運んで、大家の伊東竹善に診せるのが順番のはずだ。留造親方なら、必ずそうするはずなのに、お千香はすっかり動転していて、男の話を頭から信じ込んだ。
「うん、その医者のところにこれからおかみさんを案内するよ」
 お千香は取る物も取りあえず、三和土に降り草履を突っかけた。長屋を出て、男について大急ぎで歩く。長屋の木戸を出たところで、駕籠が待っていた。
「この駕籠に乗ってくれ。後は駕籠が連れていってくれるだろう」
 礼を言おうとする間もなく、駕籠の筵が降ろされ、男の顔は見えなくなった。その時、
―悪く思わねえでくれよ。
 そんな呟きが聞こえたように思ったのは、空耳だったのだろうか。
 どれくらい走ったのか、随分と長いように思えた。こんな遠方の医者にわざわざ連れていったのだろうかと、お千香が不安の中にも疑念を抱き始めた頃、漸く駕籠が止まった。