夢の唄~花のように風のように生きて~
定市はお千香をもう一度抱こうと、その手を隣に伸ばした。昨夜、お千香が烈しく抵抗したために、思いがけず荒々しく組み敷いてしまった。そのことを、定市は少し後悔していた。
初めて男を受け容れるお千香の身体のことをもう少し思いやっても良かった。何と言っても、お千香の身体は同じ年頃の十六歳の娘よりはかなり稚い。せいぜいが十二、三歳ほどのものだろう。
お千香の泣き顔や抵抗に、定市自身かえって煽られた部分が大きかった。昨夜の手荒な扱いは、お千香の心にも大きな傷を与えたに相違ない。今度はもっと優しく抱いて、男女の営みというものが本来は快いもので歓びを伴うものだと教えてやれなければと思った。
そんなことを考えつつ手を伸ばしてみても、傍に横たわるはずの少女のやわらかな身体には手は触れず、空しく宙を泳ぐばかりだ。
ハッと我に返って横を見た時、既にそこにお千香の姿はなかった。
昨夜のお千香との一夜を改めて思い起こし、定市は満足げな吐息を洩らした。やわらかな身体、絹のような肌理の細やかな膚、まだ稚いけれど、形の良いふくらみ始めたばかりの乳房。未成熟で清らかな肢体がかえって情欲をかきたて、定市は我を忘れるほど、お千香の身体に溺れた。思った以上に、お千香と過ごした夜は定市にとって忘れられない、愉悦を伴うものとなった。
定市は立ち上がり、念のために隣の部屋を覗いてみたが、当然ながら、お千香はいない。
その時、初めて、お千香が自分から逃げ出したのだということに気づいた。彼にこれまで知る中で最高の悦楽を感じさせた少女は、まるで霞が消えたようにいなくなってしまった。
定市は冷たい光を放つ眼を怒りで燃えたぎらせた。
「この私から逃げられると思ってるのか、お千香。たとえ地獄の果てまでもお前を探しにゆくぞ」
獲物を捕らえようとするハ虫類のように、酷薄な瞳がなおいっそう冷徹な光を帯びた。
部屋の障子戸を開けると、一挙に冷気が忍び込んでくる。乳白色の霧が一面を覆い尽くしている。そのため、視界が白い幕に遮られ、夜明け前の庭は霧の海の底に沈んでいた。
定市は底光りのする眼で、白い庭を眺めていた。
深い朝靄の中、一人の男が人気のない道をゆっくりと歩いている。男の周囲は深い朝霧に包まれていて、すぐ前方の景色さえ定かではない。
「全くなあ、捨て猫をまた捨てるなんて、後味の悪いことを何で俺がしなきゃならねえんだか」
男はまだ若く、年の頃は二十二、三歳ほど、長身の美男である。だが、ぼやきながら頭をかくその仕草は、まるで悪戯っ子のようだ。
男の名は徳松。若いけれど、なかなか腕の良い大工と評判で、気難しいことでは知られた棟梁留造の下で働いている。徳松は江戸の町外れの裏店に一人住まいしており、大家の
伊東(いとう)竹(ちく)善(ぜん)は町医者を生業(なりわい)としている。
この竹善は大の酒豪であることを除けば、気も良くて腕も良いと二拍子揃った医者なのだが、他にもう一つ、困った癖がある。というのも、捨て猫をいずこからともなく拾ってくるのである。竹善自身も同じ裏店の一角に住まいしているが、既に四畳半の狭苦しい部屋はおさまりきらぬほどの飼い猫で溢れ返っているのだ。
昨夜も酔っぱらって縄暖簾から良い機嫌で帰宅した竹善、小脇に後生大事そうに捨て猫を抱えていた。しかし、十匹の猫を抱える身では、流石にこれ以上は飼えないことに気づき、やむなく捨てられていた場所に戻してくることになった。その役目を何故か徳松が引き受けることになってしまったのである。
いつもこうなのだ。他人が嫌なことを知らぬ中に引き受けさせられているのが徳松という男であった。見た目は近寄りがたいほどの美男でありながら、内面は涙もろくてお人好し、正義感は人一倍強いときている。
「先生もちったあ考えりゃア良いのによ。今でさえニャーニャーと小うるさくて仕様がねえのに、この上飼い猫増やしてどうするってえんだよなあ」
そうはぼやいてみても、つい今し方、小さな稲荷社の祠の前に置き去りにしてきた哀れな子猫のことを思い出せば、自ずと気分が沈んでくる。
「ちぇっ、つくづく損な役回りだよな。こんな嫌な想いをするくれえなら、引き受けなきゃア良かった」
徳松はまだぶつくさこぼしながら歩いた。
他人に頼み込まれれば、否とは言えないこの性分が我ながら恨めしい。
そのときのことだ、ふと前方に何か横たわるものを見つけた。
「何だ何だ?」
徳松は垂れ込める霧をかき分けるようにして進み、眼を凝らした。道端に倒れているのは物ではなく、人間であった。
「お、おい。今度は猫じゃなくて、行き倒れかよ。冗談じゃねえや」
しかし、そのまま見ぬふりをすることができないのが徳松の徳松らしいところであった。
徳松は倒れている者の傍まで来ると、足許を見下ろした。深い朝靄の中に美しい娘が横たわっていた。徳松は恐る恐る、しゃがみ込んで娘の顔を覗き込んだ。耳を口許に近づけると、どうやら呼吸はしているようで、心底からホッとする。捨て猫を再び捨てる罪深い行為の後、今度は行き倒れの死人に遭遇するという状況は、できれば避けたい。
事実、初めは、この気の毒な娘が死んでいるのかと思ったほど、娘は身じろぎもせず顔色も紙のように白かった。
が、徳松はこんな状況でありながら、しばし娘に見惚れた。長い睫が濃い翳を落とし、透き通るようなすべらかな白い肌をしている。間近で見ると、眼の醒めるような美貌であった。
徳松の視線が娘の全身を捉え、その整った顔が曇った。娘の身につけているのは薄い寝衣一枚きりであったが、その寝衣は見るも無惨な有様であった。片袖は千切れ、至るところが引き裂かれ破れている。緩んだ胸許や首筋に強く吸われた―恐らくは接吻の跡だろう―が刻みつけられていた。
流石に、こうしたことには疎い徳松でさえ、この美しい娘が何者かに犯されたのだという事実を嫌でも知ることになった。娘の白い頬には幾筋もの涙の跡があった。
「何て酷えことをしやがるんだ」
徳松はまるで我が事のように腹が立った。無抵抗な若い女を力尽くで思いどおりにし、慰みものにする輩がいるなんて、同じ男として信じられない。
この娘の素性は判らない。しかし、たとえ既に誰かの女房であったとしても、良人だからというただそれだけの理由で、娘をここまで蹂躙することは許されないだろう。
やるせない怒りを憶えた。
こんな有様の娘をここに放っておくことはできない。質の悪い男が見つければ、娘はまたどこかに連れ込まれ慰みものにされてしまうだろう。こんなにきれいな娘を男が放っておくとは思えない。
徳松はやむなく娘を長屋に連れ帰ることにした。娘は女としては身の丈はある方だろうが、愕くほど華奢で頼りなげだった。徳松は娘を軽々と抱き上げると、白い霧の海の中をゆっくりと歩き出した。
お千香は夢を見ていた。
真っ暗な闇の中を懸命に走っているお千香を誰かが追いかけてくる。
後ろを振り返ると、それはすぐ後ろまで追いついてきている。
―助けて、誰か、来てえーっ。
声が嗄れると思うほどに大声で助けを求めても、辺りはしんと静まり返っていて、人影もない。
作品名:夢の唄~花のように風のように生きて~ 作家名:東 めぐみ