アトリエの恋
絵画教師は背後の壁の棚から、ちらしのようなものを一枚取り、阿坂が立っている玄関に歩いてきた。
「じゃあ、これを見てください」
生徒募集のちらしだった。阿坂は一通り眼を通してから云った。
「今月は今日までですね」
「月謝は来月からでいいですよ。今日の分は結構です」
教師はまた笑顔になった。
「そうですか。じゃあ、来月から生徒にしてください」
「今日からということで、描いていってください」
「キャンバスを持って来なかったんですが……」
「誰かが忘れて帰った未使用のがありますから、それを使ってください」
「そうですか。その分の費用はどうしましょうか」
「誰が置いてったか判らないんです。気にしないでください」
「そうですか。ありがとうございます」
「さやかちゃんの隣でどうぞ」
教師はイーゼルと折たたみの椅子を持ってきてくれた。玄関からまっすぐに中ほどまで進んだアトリエの右端で、さやかは小さなテーブルの上の花瓶の花を描いていた。
阿坂はさやかの左側で、エプロン姿の彼女と同じモチーフに向かう形になった。
「今日は二十六年間の私の人生の中で最高の一日になりそうです。ありがとうございます」
阿坂がそう云うと、さやかが声を押し殺すようにして笑った。