日々平穏
『以心伝心ゼロ』
「ゴムソン大丈夫かな・・・」
それは聞きなれない単語だった。千尋は娘・飛鳥のつぶやきを頭の中で思わず繰り返した。「ゴムソン・・・」と、不可解なその単語は理解できない苦しみを表現するかのように口からこぼれ落ちてしまう。時間帯はすでに20時を過ぎた頃で、今年の冬が大変居心地がよかったのか冬将軍がまだ滞在しているような肌寒さが残る春先だった。その中で再び飛鳥は外を見ながら呟いた。
「ゴムソン大丈夫かな・・・?」
飛鳥の語尾の声色が少し上がることで千尋の疑問は膨れ上がった。あたかも家族の一員のように呼ばれるその名前が記憶にないからだ。もう小学生になったというのに人形を山のように並べて遊んでいる飛鳥のコレクションの名前は確かにナンセンスなのは認めよう。だがゴムソンという名前に覚えはなかった。
「ねぇ、ゴムソンって何?」
聞いたら負けだという雰囲気すら漂っているその中、千尋はついつい疑問を口にする。だが相手は空気の読めないことがウリな小学生。当然のような顔で言うではないか。「ゴムソンはゴムソンだと」。
「いやですね、わからなから聞いているのですよ・・・母は」
「だからお母さん、ゴムソンはゴムソン!そんなことも知らないの?」
知らないから聞いている。時間帯がテレビ局に言わすとゴールデンタイムだからか、今流行りのお笑い芸人が何やらテレビの中で騒いでいたが彼らにゴムソンという名前の者がいただろうか。世間の波から遠ざかっているのを自負している千尋は再度自問自答を繰り返してはみるが答えはノーだ。
だがこのまま年甲斐もなくゴムソン談義で熱くなるのは恥ずかしいと大きく息を吸い込む。いつもならば飛鳥のイレギュラーな発言には真面目に耳を傾けることはないのだが・・・ゴムソン、気になるではないか。ソファの隣では飛鳥の父親である和樹がまるで自分は関係ないですといわんばかりに週刊漫画を読んでいた。たまに肩を揺らして笑ったかと思えばテレビの漫才を見てまた笑う。集中力があるのかないのかわからないその所業はアットホームな家庭の会話に加わる気がないのは見てとれた。
「ねぇパパさん」
「・・・・ぶふっ。・・・ふふ」
「パパさんったら」
ちなみに千尋はお母さんであり、和樹はパパだ。将来受験などまったく視野にないくせに「パパママはお受験の時に不利だから」という理由だけでお母さんと呼ばせる千尋と、「パパって女の子に呼ばれてみたかった」という和樹という化学式よりも厄介な夫婦の統一性のなさが伺えるというもの。とにかく千尋の必死な発言のおかげか(時折グーパンチがさく裂してはいたが)ようやく和樹が漫画から顔を上げた。
「ん・・・?で、何?」
「だからゴムソン。知ってましたか?」
「あぁ・・・ゴムソン」
「お母さん、ゴムソンも知らないの?」
「いや、だから聞いてるのですけどね」
和樹は曖昧な返事しか口から出さない。いや、千尋の質問の意図がわかっているからこそ答える気がないのだろう。それを証拠に一瞬だけ意地の悪い顔で笑っていたのだから。飛鳥も母親だけが知らないことで優越感に浸っているのだろう。鼻の穴が全開に膨らんで頬を赤らめて「ゴムソン」と連呼していた。そしてそのよくわからない攻防戦の末に飛鳥は得意気に告白する。
「ゴムソンはダンゴ虫よ!今日私が捕まえたの!」
「ダンゴ虫?」
どうやらゴムソンの正体はダンゴ虫だったらしい。千尋は瞬時にダンゴ虫との共通点は『ゴ』しかないと判断したが、ネーミングセンスがお世辞にもいいとは言えない娘らしくて苦笑いしかでなかった。とりあえずゴムソンの正体はわかった。だがこの娘は「捕まえた」と言わなかっただろうか?
「ちょっと待ってください。ゴムソンは今どこにいるんですか?」
「外!ゴムソン可愛いんだよ」
ひとつ聞いたらそれ以外の余計なデータは山のように提供してくれるスピーカーのような娘に千尋は待ったをかける。このまま放置していくと重要な答えの前に話題が逸れてしまうのは目に見えていた。
「外のどこ?どんな風に捕まえてるの?」
質問は明確でいて的確に、そして簡潔が大事なのだ。子供と喋るのもけっこう頭脳勝負なのだと育児をして初めてしった事実。子供だって侮れない。だからか千尋はマイペースにゴムソンを語る娘に話しかけたのだが、その思惑はこれっぽっちも伝わらなかったらしい。
「ゴムソンは飛鳥のペットなの。お母さん、うちは動物は飼えないけど、ゴムソンならいいよね」
ダンゴ虫はペットに入るかどうか・・・母親だって知りたいと思ったのはここだけの秘密。賃貸の古いアパートであっても飼育禁止だ。もしも『ダンゴ虫はペットにはいりませんよね?』と大家に聞いても不動産の嫌味ばかり言う年増の担当に聞いても首を傾けるだけだろう。いや、聞くこと自体がナンセンスだと意味不明な結果に行き着いた頃には和樹はもう雑誌に視線を落としていた。
「いやいやパパさん、ゴムソンを存じておりましたか?」
「勿論」
和樹は再び視線を走らせた紙面から視線を外すことなく返事をくれた。なんてことだろう。この家族はとても優しくとても冷たいと千尋は声にならない声を上げた。すると「お母さん面倒くさいなー」と娘が言ったがここでめげる母でもない。いやいや、それよりもゴムソンの捕獲後の対応が大事だ。
「それよりも!ゴムソンの現在はどうなってるんですか?」
すると切羽詰まった千尋の様子が怖かったのか、はたまた千尋で遊ぶのに飽きたのか簡単に教えてくれた。
「外にガチャガチャの容器に入れてある」
「まじですか!」
それは動物虐待、いや昆虫虐待だと千尋は思うがそんな言葉はなかったようにも思え複雑な胸中を語る術はない。とりあえず母親のなけなしの威厳をかざすように娘に話しかけた。
「ゴムソンのご飯は?おなかが空いたらかわいそうだから逃がしてあげたら?」
「大丈夫だよ、お母さん!ご飯粒入れておいたから!」
「ご飯粒―!」
「うん、じぃちゃんがダンゴ虫のご飯はご飯粒だって言ってた」
ちなみにじぃちゃんとは近所に住む舅のことである。娘を本当に可愛がってはくれるのだが・・・ダンゴ虫にご飯粒とは初耳だ。キャベツなどはよく聞くが・・・学会もびっくりな説に千尋の口は漫画ように開いたままだった。
「お母さん、ゴムソンご飯粒にくっついて食べてたんだよ」
「食べてたなら大丈夫・・・か?」
だが現実とは容赦のないものである。雑誌とテレビの世界しかなかった和樹が再び顔を上げた。どうやらこちらの話も聞いていたらしい。
「ゴムソン、食べてたっていうか・・・捕獲されたみたいだった。トリモチみたいにご飯粒に短い脚全てがくっついて動けなくなってたみたいに見えたけど・・・」
「パパさん、それ早く言ってー!」
「きっとゴムソン、おいしいおいしいって食べてたんだよ」
「違うから、それきっと違うから!」