日々平穏
『腹痛』
これは千尋がまだ若き頃の話だ。年にすると20という若さであり、まだ恥じらいや初々しさがかろうじて残っていた年のこと。同居していた妹が早々に結婚を決めて無駄に高いマンションの維持に困った挙句、当時付き合っていた和樹に家賃を払えと半分脅しをかけて同棲という・・・なんともいえないエピソードの結果、一緒に住んでいた時の話である。
「う・・・おなかがとても痛いです」
それは夏だった。外は汗ばむなんてレベルじゃない温度なのは確かだったが今千尋がいるのはマンションの一室だ。和樹とのんびりテレビを見ていた時だった。普段休みの合わない二人だったが、やることもなくダラダラと転がっていた時、千尋の急な腹痛が物語を引き起こす。
「なんだか・・・とても、痛い」
それは女性にありがちな生理痛ではない。シクシクとした痛みではなく、どちらかといえば新幹線が勢いをあげて走り出したような加速感のある痛みだった。別に耐えられない痛みではない。だが千尋は実は夢見る乙女を自称しているフシがあり、時折よくわからない期待を持った妄想を抱くことがあった。この時がまさにそれだ。
実は少し前に知り合いの素敵な夫婦の話を聞いた千尋はそれを実践したかった。ちなみにその話とは「おなかが痛みだしたら彼が手のひらで温めてくれたの。凄く暖かくて幸せだった」というものであり、若さとメルヘンな性格がそれに憧れるのも無理はなかった。
「なんだか痛いですよ、和樹さん」
ちっとも構ってくれない彼氏にブツブツと呪詛をはくように言い続けてみる。和樹はあまり聞いておらず、ぼんやりスカパーに夢中だ。千尋からすればまったく興味のないチャンネルだったので暇だったのが後押しした。
「あー・・・・いたたたた」
無駄にアピールしてみる。
「そういえば、手のひらで温めると治るみたいです。思い出しましたよ!」
ちっとも乙女心の欠片もわからない男にさらにアピールしてみた。次第に小声のアピールが大きな声となり、鬱陶しいと評判の高い性格でさらにまとわりつく犬のようにそばでわめきたてる。
「痛いなーおなか痛いなー。ねぇ、和樹さん聞いてます?」
どう言っても構ってくれないので最後には名指しで指名までした。するとようやく聞き入れる気になったのか和樹がテレビから視線を外して千尋を一瞥する。その目が語る言葉は「メンドクセー」だ。しかしそれにめげるような千尋でもないので視線が向いたことを嬉々として喜ぶことにした。
「ねぇ、痛いんですよおなかが。これは一大事です!」
「姉さん、事件です!」
「いえいえ、そんなネタを私は求めてないですから。だからおなかが痛むんです」
「そうか、ならトイレへ行ってこい。俺は今テレビに忙しい。思う存分トイレに籠れ」
「乙女になんていうことを!このおっさんは!」
腹痛は波となって押し寄せてくる。丁度その波が来た千尋は眉間に皺が寄るのを和樹も気がついたのだろう。少しだけ向き直り、再び口を開く。
「わかったから・・・そこに横になって腹を出せ」
千尋は期待した。和樹の手のひらは普段冷たいことが多いが今は夏だ。きっとその両手は暖かいことだろう。もしかすると汗ばんでいるかもしれない。だがそれは問題ではなかった。逆に冷たい手のひらならばおなかと触れ合うことで暖かくなれば・・・なんだか心もホコホコしそうだ。なんて素晴らしいのだろうと、ちょっと胸が暖かくなる。
「わかりました、お願いしますね!」
千尋はそう言いながら照れくさそうにTシャツをめくる。すると冷房で冷えた空気がひんやりとおなかに纏わりつくような感覚に襲われた。裸を見られて恥ずかしいというよりも、この恋人ごっこのようなやり取りが楽しくてたまらないのだ。羞恥と期待に胸を膨らませ横たわった時だ。
「よし、この角度か」
和樹は節電のために冷房と同時使用の扇風機に手をかけた。そしてその首の角度を調整していく。
「そのまま服を上げてて」
「ちょっと・・・和樹さん・・・?」
なんだか様子がおかしい。あきらかに期待と真逆・・・いや、斜め上をいく。千尋は頬がひきつるのを無視して問いかける。
「私、おなか痛いんですけど」
「だからこうして冷やしてるんだろ?おなかが痛い時は限界まで冷やして・・・一気にトイレで出すのが効果的だと俺は思ってる」
「ノン!」
それはあきらかに優しさライセンスを取り違えていた。しかし和樹は少し得意そうに続けた。
「俺はこれが一番手っ取り早く治ると信じていつもこうしている。ほら、お前も冷やせ」
扇風機の風力は強。優しさが突き刺さった。
「私、そんなことを求めてはないのですが・・・・ってまじ痛い、痛いです!」
「よし、その調子だ!もう少ししてトイレに行け。あぁ、限界まで我慢して出したら凄く気持ちがいい」
「別に私は気持ちよくなりたいわけでも、そういったプレイを望んでいるわけでもなく・・・この痛みから逃れたい一心なのですが!」
「大丈夫、出せば痛みが止まる」
「そんな問題じゃないですから!」
そしてその持論を10年以上たった今も覆すことはなかった。