日々平穏
『ザリガニ』
子供の頃は生き物を自宅で飼育したいという欲求にかられることがある。誰もが通る道だろう。しかし飛鳥の家は賃貸だった。しかも生き物の飼育禁止だった。両親からすれば問題ないのだが、飛鳥からしてみれば大問題だった。しかも両親は一戸建てで幼少を過ごしており、ことあるごとに「昔飼っていた犬が」と話すのだ。当然である。そのせいかどうかはわからないが、日々生き物を飼育したい思いに駆られたらしい。飛鳥は決意する。
「お母さん、飛鳥はこれからザリガニを飼うことにするよ!これはペットじゃないもんね。大丈夫だよね」
帰宅して千尋を迎えた第一声がそれだった。手には大きなプラスチックの入れ物の中にチャプチャプと水が入っており、確かにザリガニが存在したが千尋からしてみれば寝耳に水というやつである。そもそもザリガニが自宅周辺にいるというのは初耳だった。確かに昔は生息しただろう。しかし環境の変化もありこの地域では絶滅したと考えていたからだ。都会ではないにしろ、生活排水ばかりが流れている水路はお世辞にも綺麗とは言い難い。夏には異臭を発する千尋から見れば迷惑な存在でもあった。
「ねぇ、これどこにいたのですか?」
思わず呆然としたまま問いかけた千尋を許してほしい。仕方のないことだった。なんせ帰宅してザリガニ、しかもけっこう汚い水と苔だらけのザリガニ・・・しかもほのかに異臭が漂っている。これはいろいろな意味でただごとではない。すると飛鳥は得意気な顔で教えてくれる。
「そこのドブんこ!」
やはりか!千尋は内心さらに呆然とする。そのチャプチャプと揺れる水はアレか・・・ドブんこの水か、だから臭いのかと瞬時に判断してみるがそれをどう対処しようかまでは頭が回らない。そんな母をおいて飛鳥はペチャクチャとしゃべり始めた。
「ドブんこで獲ったの!水がバシャバシャして大変だったけど長靴があるから大丈夫だたよ!」
長靴は確かに存在した。千尋が小学校に入学した際に購入したものだ。しかし帰宅時に雨が降ってないと恥ずかしいという理由と、体格に比例して大きな足に合わせたサイズの長靴が恥ずかしいという理由で出番が少ない存在だった。それをどうやら使用したらしい、よく晴れた日に・・・ドブんこで。
声を失った千尋の前で飛鳥はまだ話し続けた。
「水がピシャピシャ跳ねて大変だったの!だからちゃんと着替えもしたんだよ」
「その濡れた服はどうしたのですか?」
ようやく声が出た。そして問いかけの答えは近くを指差して終わる。その意味はそこに脱いで放置している、だ。
「じいちゃんがね、ザリガニはチクワを食べるんだって!でも飛鳥も大好きだからお母さんがチクワをあげていたら飛鳥も飛びつくかもね・・・でへへ!」
でへへじゃない、と突っ込みたかった。そもそもチクワなのかとも問いたい。いや、その前にじいちゃんっと突っ込みたい。いろいろ千尋の脳裏を横切っていくが、全ての質問の前にやるべきことは一つだ。
「そのザリガニをリバース!今すぐリバース!」
とんでもないことだった。飼育など子供だけで精いっぱいだというのに、というのが千尋の持論だ。それにそのザリガニはお世辞にも綺麗とは言い難かった。第一、飛鳥の言い分を鵜呑みにするならば近所にいくらでもいるらしい。それならば敢えて飼育する必要もない。
「うちじゃ無理だから、でも近所に住んでるんでしょ?ならそれを毎日見に行けばいいんじゃないですか?」
飛鳥は抵抗を試みるが千尋だって負けてない。ザリガニの飼育をしたことがあるだけにその大変さはわかっているつもりだった。フルタイムで働いている身では通常の家事さえも行きとどかない。
「えぇ!飛鳥ね、名前も決めたんだよ。ザリクソン!」
「ザリクソン!」
千尋は知る。ネーミングセンスも突っ込むところなのだと。
「これは犬や猫じゃない。静かだから飼ってもいいでしょ?」
「ダメなものはダメです。自宅だと臭うし、外は暑くなるからボイルされます」
「ボイル?」
「ゆであがります。真っ赤になって死にます。それならば外で流れている水に放流してあげるのがガリクソンのためですよ」
「うー」
「それにチクワ、チクワです!チクワをもしも購入して・・・それをガリクソンにあげることを飛鳥さんは耐えられますか?」
それは千尋の最後の賭けだった。これで飛鳥が諦めなければ奥の手の「お小遣いあげません」がコマンド入力されたのだが、この一言は飛鳥に多大なダメージを与えたらしい。
「チクワ・・・飛鳥一人で食べたい・・・うん」
どうやらザリガニではなく、飛鳥が釣れたらしい。
「そうだよね、おうちにザリクソン返してくるよ」
そしてその後飛鳥は素直だった。それはとても。その出来事を千尋は後日親友との電話で話した。ちなみに親友とは心の中で呼んでいる間柄であり、実際は「お互い結婚式で友人代表をやった関係」と双方が口にしている。親友とは口が裂けても認めない間柄なのだが、その長年の親友に言うととんでもない言葉で締めくくられた。
「千尋、それだけはやめときな。そして飼育するにしても外はダメだからね。絶対に!だってほら・・・お前の家族、みんな太ってるじゃん。エンゲル係数疑われてるはずだから・・・外で飼育すると食用って思われちゃうよ。大変だよ!」
やっぱりザリガニを飼育するのだけはやめようと、そう決意した電話だった。