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妻の死

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「遠い日のことを急に思いだしたの。あれは大学四年のとき、帰省するために列車に乗ったの。向かい側の座席には、若い母親と小さな男の子が座っていたの。とてもかわいかった。ぼんやりと、車窓から外を眺めていた。列車は街から離れていくに従い、家並から緑の水田と変わっていった。空は金属のような濃い青色をしていた。風が少し吹いていた。緑の木立の梢を微かに揺らしていたけど、空に浮かぶ白い雲はまるで動じなかった。複雑な思いだった。母が望んでいなかった形で就職したことを告げなければならなかったから。母が一緒に暮らすことを期待していたことをずっと前から知っていたのに。突然、幼子が自分の様子をうかがうかのように見ていることに気づいたの。その幼子の瞳は澄んで大きかった。人懐っこいのか、それとも自分が誰かにでも似ているのか、恥ずかしそうに微笑むと、直ぐに顔を隠した。ある瞬間、視線があった。幼子は条件反射的にニコッとしたので、こちらも思わずニコッと笑い、声を発したかと思うと、恥ずかしいのか、すぐに母親の胸に顔を埋めたの。まどろんでいた母親は何もなかったように子供の顔を撫ぜたり、髪を撫ぜたりした。しばらく経って、幼子がまたこっちをじっと見て微笑むの。突然、思った。自分にも、こんなふうに母親に甘えた時期があったことを。そのことに気づいて、とても胸がしめつけられた。同時に、いつか、こんなかわいい子供が作れたらいいなと思った。あれからずいぶんと経った。子供を作れなかった。あなたに何もしてやれなかった」と涙声になった。
「馬鹿なことを言うな」
「馬鹿なこと? そうね。何もかも馬鹿げている……いったい、私の人生は何だったのかしら?」
「俺はお前に感謝しているよ。人生の意味はあった。お互いに生きていたことに意味はあった。俺はそう思っているよ」
夕方、徹が帰ろうとすると、「一人でいるのが怖い」と言って妻が泣いた。
「一人でいると、ずるずると底なしに落ちていくような恐怖を感じるの」と彼の手を握った。まるで枯れ木のような細い手に、彼は涙を流した。結局、妻が眠るまでずっと付き添った。
その日を境にして、妻の病状は急激に悪くなり、あっけなく死んだ。妻と一緒に旅をするという夢は叶わないまま消えてしまった。






作品名:妻の死 作家名:楡井英夫