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妻の死

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『妻の死』

「がんです」と医師は冷静に言った。
何かの悪い冗談のように思えて、立川徹は聞き直した。
「がん? 本当ですか?」
「悪いですが、こんなことは冗談では言えませんよ」
 突然、見ず知らぬ者が人の家に土足で入ってきたような感じがして、立川は強い憤りを覚え言い返した。
「でも、妻はずっと元気でした。結婚してから、何一つ大きな病気しませんでしたよ」と強い口調で言った。
「そうですか。それは残念です。でも、事実です。ほら、このレントゲン写真をみてください。この黒いところ。かなり進行しています」
「手術は?」
「難しいでしょう? 大きな苦痛を伴い、それに除去できる保証はほとんどありません」
 死の宣告に等しい言い方である。
「手術しなかった場合、どのくらい生きられますか?」
「分かりませんが、半年か。長くとも一年くらいか……進行具合で決まります」
 立川は優秀なビジネスマンである。何よりも仕事が好きで、どんなときでも、仕事のことを優先的に考えてしまう仕事人間である。それは同時に妻のことをあまり考えなかったということを意味する。だからと言って、軽んじてきたわけではなかった。彼なりに敬意と愛情を払っていた。ただ、それをうまく言葉や態度に示すことができない不器用な人間である。
「とにかく、気を落とさないでください」と医師に言われたが、立川は上の空だった。
妻の病室に向かいながら、何と言うべきか考えた。うまい言葉が浮かばない。仕事のときは立て板に水を流すように喋れるのに。
ドアを開けた。
 妻が何も言わずに微笑んだ。
「何かあったの?」と優しく聞いた。
「何もないよ」と答えた。
「そう」と呟き、 妻は窓の外を見た。
 窓の外には五月の青い空が見える。雲一つない。ありふれた昼さがりの空である。
「あなたは昔から嘘を付けない人ね。そこが好きだった」と呟いた。
「本当に何もなかった」
「私は分かっているの。自分の病気のことだから。……きっと、がんだと思うの。私の家系は多くががんで死んでいるから。だから、がんになっても不思議じゃない」
「何を言っている! まだ先生から検査結果を聞いていないぞ!」
 妻は黙って答えない。代わりに振り向いた。ほんの少し微笑んでいるように見える。その顔の向こう側にある悲しみを、徹は痛いほど分かった。だが、慰めの言葉を見つけることが出来ずただ立ち竦んでいる。一筋の涙に頬が濡れていることに気づいた。その頬はこけている。病院に入る前からか。ずっと若い頃はふくよかだった。いつの間にこんなに痩せたのか。白髪も増えている。子供ができないことを嘆いたこともあった。それらが次々と走馬燈のように、彼の脳裏を過った。
「どうしたの? 顔に何かついている?」
 彼は何も言えずただ微笑んだ。何とも不器用な笑みだった。
しばらくして妻は、「少し眠りたくなったから、寝ていい?」
 「いいよ。もうしばらくここにいるよ」
 立川は、妻の寝顔を見ながら、結婚して二十年間のことを考えた。春、夏、秋、冬、喜びがあった。悲しいこともあった。だが、押しなべて平穏に淡々と過ごせた。子供はできなかったが、十分幸せだった。だが、妻が死に、自分も死んだら何も残らないことに気づき愕然とした。

入院して一週間後、徹は妻の看護のために会社を辞める決心をした。そのことを上司や同僚に告げると、あまりにも突然であったせいか、誰もがあっけにとられた。誰よりも仕事にこだわっていた彼があっけなく、仕事と縁を切るというのは誰にも想像できなかったのである。
同僚の秋川が居酒屋に誘った。
二人ともだいぶ酔いがまわった頃、秋川が切り出した。
「辞めるのか? まだ仕事は続けられないのか?」
「妻はがんにかかっている。転移が早くて、そんなに長く生きていられないと告知された」と立川は淡々と答えた。
秋川は何も言えず、立川を見た。その眼は不思議と澄んでいる。
「ずっと仕事に熱中していて、何もしてやれなかった。子供もいないから、いつかは二人で旅をしようと話していた。故郷の山を最後に観たいと言っていた。連れて行くことにしたよ」
「お前から仕事をとったら何が残る? 人生はまだまだ先が長いぞ」と秋川は諭すように言った。
「長いか短いか……俺には分からない。けれど、後悔はしたくない。親父が亡くなったとき、家族のために働き、愛情を注いでくれた父に、なぜ孝行してあげなかったのか、とずいぶん悔んだよ。離婚があったり、親戚とのトラブルがあったりした。金銭的には決して豊かではなかった。果たして幸せだったのかとも思った。今となっては聞くこともできない。ただ何もしてやれなかった無念さがある。何もしてやれなかったことが大きな悔いが残っている。同じ轍は踏まない」
秋川は立川の決意の固さを知ったとき、「まあ、がんばれよ」というのが精いっぱいだった。

 会社に辞表を出した翌日、妻に会社を辞めたことを告げた。
「どうして?」
「私のため?」
「いや、違う。他の会社に移ることにした。今よりもいい仕事が紹介してくれる人がいる。いろいろ考えて、そっち移ることにしたよ」
「そうなの。あなたが決めることに間違いはないわね。で、いつから?」
「三か月後だ。それまでは充電するよ。働き過ぎで疲れた。それに、一緒にのんびりと旅行でもしようとも思っている」
「病気は治ると思う?」
 神妙な顔で見られていることに、徹はとまどいの色は隠せなかった。
「治る。きっと治る。まだ五十前だ。人生はこれからだ。いろんなことをやりたいと言っていただろ? 絵を描きたいとか。音楽を習いたいとか。神様はちゃんと見ているよ。良い人を簡単に死なせはしない」
「あなた、神様を信じているの? 結婚するとき、神式で結婚式をしようと提案したら、俺は“無神論者だから、神様は信じていない”と言っていた」
「人は変わるものだ。俺も心を入れ替えて、神様を信じることにした」
「いつから?」
お前が病気になった時からとは言えなかった。妻のがんを告知された時、彼は近くの神社で何度も助けてくださいとお参りした。
「ずっと前からだ」

 会社を辞め、自分の家と病院を行き来する日々が続いた。
「どうした?」という徹の声で、
妻は目覚め、「え?」と驚きの声を発した。
「どうした? 涙なんか流して?」
作品名:妻の死 作家名:楡井英夫