小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

My Godness~俺の女神~Ⅳ

INDEX|7ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

 実里は拳でトントンと腰を叩き、また背伸びした。箱に詰めている液体洗剤の詰め替え用を棚のいちばん上に順序よく並べていく。たったこれだけの作業が、今の実里にとっては、かなりの難作業となってしまっている。普通では考えられないような手間と時間がかかるのだ。
 仕方ないと、脇にあった小さな台を引き寄せ、その上に上がった。
「これでよし。何とか届くみたい」
 独りごち、台に乗って商品を棚に置いた。刹那、身体が重心を崩して揺らいだ。
「あっ」
 悲鳴を上げたのと誰かの逞しい腕に抱き止められたのはほぼ同時のことだ。
「こんなでかい腹をして、高いところになんか上るんじゃない」
 どこかで聞いたような声に、実里はハッと顔を上げた。
「―!」
 実里の可愛らしい顔が見る間に蒼白になってゆく。
 あの日の記憶がフィルムを巻き戻すように、一挙に押し寄せてくる。
 衣服を荒々しく引き裂いた男の手。
 素肌を這い回った男の熱い唇。
 そうだ、眼前のこの怖ろしい男が実里を滅茶苦茶にし、嬲り抜いたのだ。
「あ―」
 実里は顔を引きつらせ、嫌々をするようにかぶりを振った。
 今更、どうして、溝口悠理が自分の前に現れたのだろう。まさか、まだ復讐が足りないと実里をどうにかするつもりで?
 実里は烈しい驚愕と怯えを滲ませ、ぶるぶると震えた。
 こんな卑劣な男の前では毅然としていたいのに、情けなくも声まで震えてしまう。
「わ、私をどうするつもり?」
「少し話がしたい」
 悠理の態度は少なくとも外見上は穏やかだ。しかし、それが単なる見せかけだけでないとは、どうして言えるだろう?
「私には話すことは何もありません」
 辛うじて体勢を立て直し、実里は真正面から悠理を見据えた。
「あんたになくても、俺にはあるんだ。仕事ももう終わりだろ、どこかで話さないか?」
「嫌です、行きません」
「少しで良い。時間は取らせない」
 実里は悠理をキッと睨んだ。
「あれだけ私をいたぶっておいて、まだ足りないんですか? また私を好きなだけ弄んで、それで満足するんですか?」
 気丈に言いながらも、実里は相変わらず小刻みに身体を震わせている。
 悠理は曖昧な表情でかすかに首を振った。
「そんなに怯えてなくても良い。嫌がる妊婦を押し倒すほど、俺は獣じゃない」
「とにかく私には、あなたと話す必要はないんです。早く私の前からいなくなってください」
 実里は強い口調で言った。
 悠理が小さな吐息をついた。
「俺があんたにしたことを考えたら、そう言われても仕方がないことは承知だ。だが、これだけは聞かせてくれ。あんたの腹の赤ん坊は、誰の子だ?」
 ヒッと実里の口から悲鳴とも何ともつかない声が洩れ出た。その反応は、たとえ彼女が応えずとも、悠理に確信を抱かせるに十分すぎた。
「そんなこと、あなたには関係ないでしょう」
「その赤ん坊の父親が俺だったとしてもか?」
 実里が息を呑んだ。今や、彼女の顔色はすっかり白くなっている。今にも倒れるのではと心配になるくらい血の気を失っていた。
「なあ、頼むから教えてくれ。その赤ん坊は俺の子なのか?」
 悠理が迫ってくる。実里は恐怖に眼を見開いき、後ずさった。
「一緒になろうとは言わない。だが、せめて、子どもの父親だとは認めてくれ。その子を俺の子どもとして認知したい。あんたにも子どもにもできる限りのことをしたいんだ」
 悠理が実里の細い手首を掴む。
 彼が実里の手をしげしげと眺めた。
「あんた、随分と痩せたな。俺があんたを抱いたときには、もっと肉がついて―」
「止めて!」
 実里は掴まれた手をまるで彼の手が汚物でもあるかのように勢いよく引き抜いた。
「あなた、今頃になってよくそんなことが言えるわね。この子は、赤ちゃんは私だけの子です。この子に父親なんて、初めからいないんです。たとえ頼まれって、あなたの世話になんかならないし、力を借りようとも思わないません」
 あなたに縋るくらいなら、お腹の子と一緒に死ぬわ。
 悠理の表情が固まった。口許が引きつり、眼には歪んだ笑みが浮かんでいる。この笑み、自己嫌悪まのまなざしに何かが感じられ、実里は口にしたばかりの言葉をひったくって取り戻したくなった。
 だが、一度発した言葉は二度と取り返せない。
 同じように、自分とこの男の関係も未来永劫、変わりはしないのだ。
 過失とはいえ、妻を轢き殺した女と。
 復讐で女を辱め、身籠もらせた男と。
 そんな二人の人生が交わるはずがない。
 いや、早妃の死という不幸な出来事がきっかけで違う世界で生きていた二人が出逢ったことこそが、大きな悲劇の始まりだったのだ。 実里が早妃を轢き殺したという十字架を背負って、これからの人生を生きてゆかなければならないように、この男もまた、一人の女をレイプし、その人生を滅茶苦茶にしたという事実を抱えていかなければならないのだ。
 運命とは、かくも残酷なものなのか。
 実里は一生涯、我が子に父親について真実を話すことはないだろう。
 秘密は永遠に葬り去られ、やがて忘れ去られる。
 悠理は黙って実里に背を向けた。
 肩を落として去ってゆく男を見送りながら、実里もまた茫然とその場に立ち尽くしていた。

 スーパーの近くに小さな公園があった。
 いつか早妃と寄ったことがある。
 あの頃、早妃は妊娠五ヶ月で、近くの神社で簡単な安産の祈祷を上げて貰い、腹帯を貰って帰る道すがらであった。
 ほんの猫の額ほどの公園にはブランコと滑り台があるだけで、それすらも今は殆ど使用されていないらしい。
 草がぼうぼうに生えて、忘れ去られたかのようなブランコと滑り台が淋しげに見えた。
 早妃と並んでブランコに腰掛け、揺らしながら見た世界はすべてが希望に溢れ輝いて見えた。
 あれからまだ一年も経たないのに、何と世界は変わってしまったのか。
 悠理はブランコに乗り、訳もなく揺らしながら空を振り仰いだ。
 失った赤ん坊が戻ってきた。
 そう思った歓びも束の間、父親になるという夢はすぐに潰えた。
 そもそも当たり前なのだ。悠理はあれほどまで徹底的に実里を辱めた。その挙げ句に身籠もった子を産もうと彼女が決意しただけでも、実里には感謝すべきだろう。
 そんな彼女が今になって、悠理が手を差しのべたところで、ありがたがるはずがない。むしろ、いつまでも忌まわしい過去を思い出させる男が周囲をうろつけば、迷惑がるに決まっている。
 柊路の言うことは間違ってはいなかった。
 たとえ、どれほど人を憎んだとしても、この世にはやって良いことと悪いことがある。
 ましてや、早妃の死は本当は実里のせいではない。彼女を憎むことで、早妃を失った哀しみを別の方に向けようとしただけだ。
 むしろ、実里は会社での立場も悪くなり、しまいには俺に妊娠させられて、辞めざるを得なくなった。そして今、未婚の母として生きようと健気にも頑張っている。
 俺は結局、自分で自分の首を絞めたんだ。
 折角、我が子がこの世に―今度こそ元気な赤ん坊が生まれてくるというのに、その子をこの腕に抱いてやることも父親と名乗ることも許されない。
 しかし、それだけの罰を受けても仕方のないことを俺は彼女に対してした。