My Godness~俺の女神~ Ⅲ
道端の花がこうして生きているように、お腹の子も大きくなろうと一生懸命頑張っている。やがて、生まれた出た子は自分の人生を生き、自分なりの花を咲かせるだろう。
どんな花を咲かせるのか、誰も知らない。
何故なら、この子の人生はたった今、実里の胎内で始まったばかりなのだから。
生もうと思った。たとえ誰が望まなくても良い、この自分がこの子を一生かけて愛し、守ってゆけば良いのだと強く強く思った。
そしていつか、この子がどんな花を咲かせるのか、実里も側で見守りながら見極めたい。
ここでひっそりと息づいている生命をむざと摘み取ることなど、誰もできはしないのだ。この子の生命はこの子のものであり、この子の人生もまたこの子だけのものなのだ。たとえ母親といえども、新しい生命を身勝手に葬り去ることを天は許しはしないだろう。
この時、実里の中で初めて母の自覚が生まれた。
道端の紫陽花が夜陰の中でほのかに浮かび上がっている。実里は雨に濡れるのも厭わずに、いつまでも真っ青な花を見つめていた。
その二日後の昼下がり。
実里は突然、人事部の部長から呼び出しを受けた。
部長室の扉をノックすると、すぐに応答があった。
「入りたまえ」
「失礼します」
実里は慇懃にお辞儀をして部長の前に立つ。五十過ぎの人事部長は始終、渋面をしていることで社内でも有名である。あだ名は〝ムシさん〟。苦虫を噛みつぶしたような表情がトレードマークだからだ。
ゆったりとしたスペースのある部長室は一面を大きなガラス張りの窓が占めており、重厚なマホガニーのデスクがその窓を背景に配置されている。
ムシさんはその立派すぎるデスクと座り心地の良さそうな椅子には、いささか不似合いだ。部長と聞かなければ、平の冴えないサラリーマンに見える。
今日はその渋面が更に苦い薬でも飲んだように顰められていた。
「今日、ここに呼ばれた原因は君ももう判っているだろうね」
こんな時、あっさりと自分の非を認めては駄目だ。呼び出しを受けた理由が何にせよ、会社側をはやそれだけで有利に立たせることになる。それは七年間のOL生活でちゃんと心得ている。
「お言葉を返すようですが、私には何のことか判りかねます」
ウォッホン。ムシさんは白々しい咳払いをした。
「一昨日の夕方のことになる。人事部の方に
匿名で電話があった。その内容はというとだね、まあ、どうも受付係の一人が妊娠しているらしいという通報だったんだよ」
妊娠。
そのひと言がムシさんの口から飛び出てきて、流石に実里もただ事ではないと感じた。
刹那、二日前に小さな病院で偶然出くわした若い女子社員の顔が浮かんだ。丸顔の可愛らしい感じの子と一方は、大きなマスクをしていたので容貌は定かではない。確か庶務課の子たちのはずだ。
女の噂話ほど無害のように思えて、実は有害なものはない。
「その受付係の名前はお訊きになったのですか?」
シラを切り通すのが賢明だとは判っていたが、どうしても訊かずにはおれなかった。
「ホウ、君には心当たりがあるのかね」
ムシさんの小さな眼が光った。
この期に及んで、実里は、しまったと思った。まんまと相手の術中に填ったのだと知っても、もう取り返しがつかない。
明らかな誘導尋問である。
ムシさんは小さな溜息をつくと、デスクの上の両手を軽く組み合わせた。
「入倉君。人事部でも君については、ここのところよく名前が出ることが多くてね」
「部長―」
言いかけた実里をムシさんが手を上げて制した。
「まあ、聞きたまえ。僕は君のことをかえって気の毒だと思っているんだよ。四月頭に起こった事故については、本当に万が悪いとしか言えなかったからね。あれはたまたま起きたものだ。亡くなった女性を轢いたのは君ではなくて、僕だったかもしれない。あの事件の後、君の進退についてとやかく言う管理職もいないでもなかったが、僕は社内の人事を一手に扱っているという立場から、君の辞職にいては一切あり得ないと押し通した」
実里は眼を瞠った。まさかムシさんが自分に対して同情的な立場を取り、社内で庇ってくれていたとは知らなかった。
「新規プロジェクトについては庇い切れなかったことを申し訳ないと思っている。あれは社長自らが言い出したことで、下っ端の僕にはどうしようもないことだった」
「部長、色々とご配慮頂きまして、ありがとうございます」
実里は目頭が熱くなり、慌てて頭を下げた。
ムシさんは頷いた。
「そこで、一昨日の通報についてだが、入倉君は今後、どうするつもりかな? 僕としては是非、君の意見を聞きたい。その応えいかんによって、僕が君の力になれるかどうかも判るだろう」
「部長、それは一体、どういう―」
ムシさんが細い眼を更に細めた。
「単刀直入に言おう。何も女子社員の妊娠は珍しいことではない。今日日、結婚しても勤務を続ける女子社員は増える一方だからね。しかし、君がまだ未婚なのは社内でも周知の事実だ。まあ、言いにくいことではあるが、四月の事件がなければ、今回のことも寛容に対処しても良かった。だが、あの事故に続いて、また問題になりそうなことが起こったとなれば、人事部としても黙ってはいられない。だからだね。入倉君、もし君がそのお腹の子どもの父親とすぐにでも籍を入れるとか結婚するというのなら、こちらとしても問題はないんだよ」
ムシさんは一旦言葉を切り、言いにくそうに続けた。
「または、これも言いづらいが、君が中絶を考えている場合も、事は穏便に処理できる」
実里は小さく息を吸い込んだ。
「それでは、もし私が生むという決断を下した場合は、辞職せざるを得ないということですか?」
応えは聞かずとも判っていた。
「気の毒だが、そういうことになるだろうね。何しろ、うちの社長は頭が固いから。殊にそういう道義的な事柄に関しては煩いんだ。今時、シングルマザーなんて珍しくもないと僕なんかは思うけどねえ」
ムシさんはかなり薄くなった頭髪に手をやった。
「いやあ、身内の恥をさらすようなものだけど、うちの娘も今月初めに結婚したんだよ。それができちゃった結婚だった。まあ、参った。いきなり見知らぬ男と現れて、子どもができたから結婚させろだとか何とか言われて、僕は一瞬、血圧が上がって死ぬんじゃないかと思うほどのショックだ。家内はもう泣き崩れるし。一人娘だからと甘やかしていたのが災いしたらしい。だから、入倉君のことも他人事とは思えなくてね。僕としては、君がどういう選択をしようが、このまま会社にいられるようにしてあげたいと思う。しかし、やはり、現実としては、そうは問屋が卸さないだろうね」
「判りました」
実里は頭を下げた。
つまり、実里は会社を辞めざるを得なくなった―ということだ。
「入倉君」
部長室を出ようとした実里の背後からムシさんの声が追いかけてきた。
実里が振り向くと、ムシさんが心配そうに言った。
「それで、君はどうするつもりなんだね? ああ、この質問は人事部長ではなく、君と同じ年頃の娘を持つ一人の父親として聞いているんだが」
実里は微笑んだ。
「私は生もうと考えています」
何故か、ムシさんの小さな顔がパッと明るくなったような気がした。
作品名:My Godness~俺の女神~ Ⅲ 作家名:東 めぐみ