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My Godness~俺の女神~ Ⅲ

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 実里は思った。もし仮にこれが心から愛する男の子どもなら、たとえ未婚の母という十字架を背負うことになったとしても、実里は躊躇わず生むだろう。しかし、お腹の子の誕生を望む人は誰もいない。この子の母親である私自身さえも。
 その瞬間、赤ちゃんがにこっと実里に笑いかけた。何と愛らしい笑顔! どれだけ腹を立てている人でも思わず顔が緩んでしまうような顔ではないか。
 なのに、実里はふいに涙が滲んできて、慌て手のひらでぬぐわなければならなかった。
 初めての赤ちゃんを歓迎できず、しかも生む選択ができないなんて。
 二度目に乗ってきたのは六十代くらいの老夫婦だった。杖をついた老妻をやはり銀髪の品の良いご主人が労る姿には心温まるものがあった。
 どちらも今の自分とは対極にある幸せそのものの夫婦の姿である。実里の心は余計に沈んだ。
 いよいよエレベーターが一階に着き、実里は最後に降りた。
 と、愕くべきことに、潤平が降りたその場所に待ち受けていた。恐らく、階段を使ったに違いない。途中で二度も止まらなければ実里の方が先に着いたかもしれないが、全速力で駆け下りた男の方がわずかに早かったのだろう。
「実里!」
 潤平が実里の腕を掴む。
 実里はその腕を思い切り振り払った。
 後からやってきた子連れの若い夫婦が何事かとこちらを興味津々で見ながら通り過ぎていった。
「もう良いから」
「何が良いんだよ」
 潤平も負けずに怒鳴る。
 実里は今度は溢れ出る涙をぬぐいもせずに、潤平を睨んだ。
「あなたが私を絶対にマンションに呼ばない理由が漸く判ったわ」
「一体、何を言ってるんだ?」
 あくまでもシラを切るつもりなのだ。
 実里は潤平を真正面から見据えた。
「私以外に付き合っていた女の人がいたのね」
 そこで潤平が初めて弱気な態度を見せた。
「弁解をするつもりはないが、これだけは聞いてくれ。お前にこの前―四月に逢った時、俺はお前に言った。俺のものになってくれと。だが、お前は頑としてはねのけ、俺を拒絶したんだぞ? 実里、俺だって男だ。八年もの間、待ち続けて更にお預けを喰らわされて、平気でいられるとでも思うのか?」
 実里は乾いた声で言った。
「じゃあ、たった今、私が見たあの光景は、すべて私のせいだというの? 私があの時、あなたとホテルに行かなかったから?」
 私は、あなたの何なの?
 実里は大声で叫びたかった。
「お預けだなんて言い方しないで。私は、あなたの欲しいときに身を投げ出す餌じゃないわ」
 あの女は誰?
 訊ねようたとしたけれど、止めた。
 今になって判ったところで、意味はない。
 潤平は訊ねられもしないのに、自分から応えた。
「あの女は取引先の人だ。お前と最後に逢ってから、こういう関係になった。もちろん、顔見知りではあったが、誓って長い付き合いじゃない」
「つまり、あの人と男と女の関係になったのも、私の煮え切らない態度が原因。あなたはそう言いたいのね」
 実里は淡々と言った。
 今から思えば、四月末から五月頭にかけて多忙だと言って実里に逢おうとしなかったのも怪しいものだ。
 そのことから考えて、あの肉感的な美女と
深間になった時期というのは、潤平の言うとおり嘘ではないのかもしれない。
「もう良いわ。言い訳なんかしないで」
 実里は首を振った。
 今となっては、もう、どうでも良いことだ。
 潤平があの女と何をどうしようが、既に実里には関係ない。
 実里の中で言いようのない烈しい感情がせめぎ合っていた。自分は心ならずも悠理にレイプされたことに対してあれほど罪悪感を感じた。むろん、潤平に対しての罪の意識があったからだ。望まざることとはいえ、悠理の子を宿して、潤平を裏切ったという気持ちにさえなった。
 しかし、実里が罪に悶々と喘ぐその一方で、肝心の潤平は実里を平然と裏切っていたのだ。少なくとも実里が悠理に犯されたのは実里自身の意思ではない。が、潤平があの女と関係を持ったのは彼が自分から望んだことだ。
 潤平の態度が劣勢に転じたというのは間違いだった。彼は開き直ったのだ。
 すべてを―自分が犯した過ちと裏切りをことごとく実里のせいにして卑怯にも言い逃れようとしている。
 全く、こんな男に八年も自分は何を期待していたのだろう。結婚という甘い夢を見ていた? 長年付き合ってきた情もあったことは否定できない。
 愚かな、なんて馬鹿な私。
 あまりにも馬鹿らしくて、涙さえ出てこない。
 実里は小さく息を吸い込んだ。
 さよなら、何も知らなかった未熟な私。
 甘く儚い幻想を後生大切に宝物のように抱いていた世間知らずの愚かな娘。
 こんな男を好きだと思い込み続けた八年間。
 今こそ判った。
 潤平への想いに足りないと感じていた何か、愛というパズルを完成させるための最後のピースを漸く手にしたのだ。
 それは、真心だった。潤平には最初から真心がなかったのだ。相手に対する誠意と言い換えても良いだろう。
 だから、あっさりと実里を裏切り、あまつさえ、その理由を実里のせいにしようとしている。
 しかし、実里だって、潤平だけを責められはしない。自分もまたこの男に対して真心を与えようとしたことがあっただろうか。
 結婚という保険を手にするための一つの手段、言うならば安全パイのような存在がもしかしたら潤平だったのかもしれない。 
 それでも、実里は確かに潤平を愛していた。いや、愛しているとまではいえなくても、ある特定の感情を抱いてはいた。もしかしたら、結婚という二人の関係を変えるチャンスを経て、その感情が愛に変わることもあったかもしれない。
 でも、潤平は自らその可能性を断ち切ってしまったのだ。もう、この男に未練も期待もない。
「さよなら」
 実里は潤平に今度こそ背を向け、歩き出した。今度は潤平も追いかけてこようとはしなかった。
 梅雨の合間の晴れ間から一転して、外は雨が降り始めていた。あの不幸な事故があって以来、雨は嫌いになった。
 だが、今夜だけは雨が降ってくれて、ありがたいと思わずにはいられない。
 途切れることのない涙を優しい雨が隠してくれる。
 実里は頬を流れ落ちるのが涙なのか、雨なのか自分でも判らなかった。
 マンションの前には小さな花壇があった。もうすっかり海色に染め上がった紫陽花が雨に打たれて、しっとり濡れている。エメラルドグリーンの葉の上にジルコニアのように煌めく滴が無数にのっている。
 実里は人差し指でそっと水滴の一つに触れた。何故か、その滴を見ていると、あの赤ちゃんの笑顔が瞼に浮かんだ。束の間、かいま見たにすぎないのに、不思議とくっきりと眼裏に灼きついている。
 小さな顔に黒い大きな瞳が冴え冴えと輝いていた。そう、丁度、緑眩しい葉の上の滴のように。
 実里は腹部に手のひらを当てた。まだここに新たな生命が息づいているとは思えないほど、平坦でふくらみは感じられない。
 けれど、今も目覚ましい勢いで育っている新しい生命がここにある。その瞬間、実里の中に強く訴えかけてきた感情―、それは母性、であった。