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もう一度やり直せる?

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「雨が降ってきて、部屋の中に入れようとすると逃げる。全く人間の女と同じで、我が儘で男心をちっとも理解しようしない」
「でも、好きなんでしょう」
「そいつは分からない」と言って、グラスに琥珀色の酒をついだ。
 二人とも黙った。しばらく沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは、子猫である。いつしか、コジマの足元でいた。甘えるように鳴いた。コジマは小皿に牛乳を注いで、子猫をテーブルの上に置いた。けれども、子猫はテーブルの上を動き回るだけだった。
「おじさんは一人?」
「ああ」
「どうして?」
「その方が合っている」と言いながら椅子から離れ、サヤカの方に寄って庭を観た。
「私、本当のことを言うと……」と言いかけたが、口をつぐんだ。
 “子供の頃から好きだった”と言おうとしたが、あまりにも突拍子もないことだったので止めたのである。
 サヤカの母親は洋服屋を営んでいる。物心がついたときには、父親はいなかった。母親が女手一つで彼女を育ててきた。一度だけ父のことを聞いたことがある。すると母親は「死んだ」とそっけなく答えた。時折、コジマが訪ねてきた。稀に泊まることもあった。幼い時、父親は生きていて、コジマが父だと信じていた。今でも、そうではないかと思うことがある。
 サヤカはずっと孤独であった。休みの日でも、母親が仕事を優先にしていたので、いつもほとんど独りぼっちで過ごした。その孤独感を埋めるために、初めて男に抱かれたのは十六歳のときだった。それから、次々と恋した。名前さえ知らない男と戯れに遊んだこともあった。今、振り返っても、まるで夢の中の出来事のように現実感がなかった。けれども、その結果として、ある男の赤ちゃんを宿してしまった。それが母親に知られ、
「今のあなたに子供は無理よ」と言われて堕した。
今年の春先のことである。深い悲しみが彼女を被った。死ぬことばかりを考えていた。自殺未遂した。一週間前に退院したばかりである。母には何も告げずに家を飛び出し、コジマを訪ねた。

「どうした?」
「何でもない」
「どうして黙って出てきた?」
「お母さんから電話が来たの?」
コジマは首を振った。
「顔をみれば想像はつくよ。大方、衝動的に家を出てきたのだろうと思っている。一体、何があった?」
「何もないよ」
「昔から嘘を付くのが下手だった。真面目過ぎるのかもしれない」とコジマは笑った。
「お母さん、許してくれるかしら?」
「許すも許さないも、君の帰りを、首を長くして待っているさ」
 再び沈黙した。
 コジマは飲み過ぎたのか、顔がほんのり赤くなっている。
サヤカは子猫の手の平にのせた。しばらく子猫の頭を撫ぜた。
「母が言っていたわ。弁護士はみんな嘘つきだって」
「でも、悪党じゃない」
 コジマとサヤカは顔を見合わせ笑った。
サヤカは指に牛乳をつけ、子猫の口元に差し出すと、子猫は舐めた。
「コジマさんにとってお母さんは何だったの?」
「何でもないさ」
「でも、恋人だったんでしょう? そうでしょう?」
 コジマはゆっくりと息を吸い、
「そんなときがあったかもしれない」
「“弁護士は、他人を弁護するのはうまいけど、自分を弁護するのは下手”というけど、それは本当みたいね」
 コジマはサヤカの方を見た。
「恋人いるのか?」
「いない」
「いつから?」
「ずっと前から。恋人はいなかったけど……」と言いかけて止めた。
「私もここで暮らしたいな。いい?」
「駄目だね」
「お母さんが“いい”と言えばいい?」
「それでもだめだ」
 夕方になり、沈もうとする太陽が赤々と海を染めていた。

サヤカは二階にあがり、海を眺めながら、過去を振り返った。
いろんなことが起こり通り過ぎていった。あっという間の出来事のように思えるし、長い時間かかった出来事のような気もした。ふと、何もかも棄て死んでみたいという願望に駆られた。そして、死ぬところは、こんな夕日に染まった海がいいと考えことを思い出した。そんなとき、あの日の夢のことも思い出した。それは赤ん坊を堕した夜のことである。不思議な夢を見た。赤ん坊がよちよち歩きをしながら、自分を追い回す夢であった。走っても、走っても、その距離は広がらなかった。「私はあんたのお母さんじゃないの」と言っても追いかけてきた。
突然悲しくなり泣きじゃくった。泣き声が聞いたコジマが二階に昇った。すると、サヤカは自分の首にタオルを巻付けて締めていた。コジマはそれを制した。
「死にたいの」
 コジマはサヤカの肩をそっと抱いて、ベッドに連れて行った。
「いつだって死ねるさ。焦る必要なんかちっともない」
「死にたいと考えたことはある?」
「ああ、遠い昔、君が生まれる前のことだね。話してあげようか?」
 サヤカはうなずいた。コジマは子猫を撫ぜるように、その額を撫ぜ、話を始めた。
「昔の話だ。京都の大学の法学生であった頃だが、恋人がいた。彼女は、幸の薄い女だった。十七歳のときに独りぼっちになってからずっと自分の力で生きてきたと言っていた。出会ったときは怪しげな飲み屋で働いていた。ふとしたきっかけで知り合いになり同棲した。美しい女であったが、どこか枯れた花を感じさせた。いつも悲しげ顔をして空を観てぼんやりしていた。その頃の自分は愛することを知らなかった。ただ性欲の対象でしか過ぎなかった。自分にとって弁護士になるか国家公務員になるかが大切であり、一人の女性の存在など、どうでも良かった。それども、彼女は愛してくれた。卒業した日、一通の手紙も残さずに消えた。自分のために身を引いたのだが、それに気づかなかった。逆に女の薄情さを彼女の臭いのするアパートの壁に向かって罵った」
「それ、お母さんのこと?」
「違う」と言って首を振った。
 サヤカは妙にほっとした。
雨が降り出してきた。
 雨が窓ガラスに幾つもの線を引いた。
「旦那様、食事ができました」と老婆の声がした。
 後ろで老婆は立っていた。サヤカは老婆の顔を見た。まるでりんごのように丸い顔に点のような眼があった。笑っているのか、泣いているのか分からない。
 食事中、コジマ窓ガラスを打つ雨の音が気になって、老婆の方を見た。すると、その胸中を察したのか、
「旦那様、雨がひどうございます」と呟いた。
「そうだな」
 サヤカは二人の会話よりもさっきの話の女のことが気になった。
「明日晴れたら、ドライブに誘ってよ」
「晴れたなら、いいよ」

部屋に戻ると、サヤカはすぐにベッドに身を横たえた。しばらくして眠りについた。
ふと、壁の向こう側でじっと見つめる眼があるが気づいた。とても冷たい眼だ、と背後で囁く声がする。そして、あれは君の赤ちゃんだ、と囁く。振り向き、そんなことはない、と必死に否定する。けれども、耳を貸してくれない。いや、声が出ないのだ。身体中から、汗が滝のように流れる。サヤカは眼が醒め起きた。
 既にカーテンの隙間から、朝日が射していた。
窓を開けると、海から爽やかな風が吹き寄せた。昨日とはうって変わって、どこまでも青い空が拡がっていた。青い空の下では、瑞々しい緑がそよ風に身を任せていた。
「さあ、もう出掛ける時間だ」と背後から声がした。
作品名:もう一度やり直せる? 作家名:楡井英夫