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檀上 香代子
檀上 香代子
novelistID. 31673
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めぐり糸に結ばれし、わが人生

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(なにかの間違いだ)とおもった。どうしようとても不安で立ち往生

の自分が見えて泣きたくなった。クラスの中で役不足だと泣く人も居

たが、私には役が大きすぎてイジメじゃないかと思った。私のベリー

ズと組まされた班の人達、くじ引きで外れを引いた気分であることが、

空気で感じる。一晩泣いた後、〔卒業公演といっても、舞台に立てる

役者になる通過点で、卒業は役者として一人前になったということで

はない。今までと同じに勉強の過程、一歩一歩、歩けばいいんだ〕と

気持ちを、入れ換えた。しかし、気分を入れ換えたといっても、力の

なさは嫌と言うほど身にこたえる。今までのやり方では、ベリーズを

見つけられないのだ。頭の中では、戯曲も理解でき台詞の言っている

ことはわかる。でも、身体の奥で、何も感じられない。そうなると、

小学生が教科書を読んでいるような台詞の読み方になる。同じグルー

プのひとたちの〔私達の足を引っ張らないで!〕という悲鳴の目線を

感じる。みんなの気持ちが痛いほど解るし針の筵。卒業公演は、皆に

とって、外へのアピールなんだから。私自身どうすれば良いのか、

頭の中は、寝ても覚めても、ベリーズは????、どこかにヒントは??

の状態なのだ。半立ちに入っても状況は変わりません。~疲れました。 

気分転換しなくては~と思い、アルバイトのオフの日に東武百貨店の

上にある名画劇場へ、〔天井桟敷の人々〕を観にいた。

ジャンルイ。バロウのパチストが、映る前の街の群集場面に2,3秒歩

く貴婦人の姿が映った時、(あ!ベリーズ)と身体の中で叫ぶ声があ

った。私は興奮状態、息苦しくなった。その数秒間のために、もう一度

見直た。そして〔できる、ベリーズができる〕と心の中で叫んでいた。 

家に帰って動きながら、台詞の練習、不思議なぐらい、言葉が身体の中

に入り、それがでてくる。それは何なのか私には判らない。でも、次の

稽古から、私のベリーズは変わり、みんなの視線も変わった。 

私を目覚めさせた貴婦人はその群集の場面だけなのに、この人だったら

ベリーズの台詞、行動を取るだろう、では私がその人になったらコレが

出発点だった。初めて自分とは違う人から、外側から役をつかむことが

できることを実感し経験した。本番終了後、舞台美術の上野さんから

〔君のベリーズ良かったよ。〕といわれた時は、本当に嬉しかった。 

芝居はその作品ごとに苦しみがあり、新しい引き出しも増える。


 (12) 卒業、次のステップは~

いよいよ卒業、芥川比呂志に学びたいと思っていた私は、手段として、

文学座の研究所と雲の研究所を受験したが、残念ながら両方とも最終

審査までは残ったが合格できなかった。そのころ学校スタッフから、

卒業公演の配役会議で、私のベリーズ役は、高山先生のなかにはなか

ったそうだ。その会議で、1年の担任だった演出家程島先生が、

(檀上にやらせたい)と強力に推したと聞かされた。入学初めて

の授業で〔君は、舞台に向かない。〕と言われた先生だったから驚き

だった。程嶋先生のあの言葉のおかげで、私はあせることなく、一歩

づつ前へ進むことができた。人より倍以上の努力をしなくては、舞台

を歩くようにはなれないと、自分の位置を教えてくれた先生。だから、

卒業まで頑張れたのだと感謝している。卒業間じかに、高山先生から

演劇座へ来ないかといわれたが、その時の私は芥川比呂志さんに付い

てみたいという思いが強かったので、お断りした。この思いは、雲の

最終審査で落ちて、叶えられなかったけど。私は、比呂志さんのお父

様の龍之介の本が好きで、龍之介の覚めた狂気的なものが、演出家と

して、役者としての比呂志さんの中にあるように思え、傍で学びたい

と、が残念ながら夢に終わのだった。卒業後は劇団雲と文学座の試験

で、最終審査で落ちた時、きっと劇団の必要とする役者のタイプでは

ないんだと自分に納得させ、バレエ団の舞台と芝居の2足草鞋のため、

その当時Mが、参加していた群像座に外参加の形で参加。そして学ぶ

場所として、ニコラ・バタイユのワークショップ受講。

ニコラ・バタ イユの表現に、パントマイム手法がとられていた。

学校時代、クラスメイトと4人グループを作り、短期間ではあったが

日本マイム研究所の佐々木さんに、マイムの基本的を教わったのが、

役立った。その後、荒谷起代三さんの発声訓練のためのワークショ

ップ、アーチで回転しながらの発声、数分走り込んでの発声、声と

肉体との関係、動きと声の勉強になった。確かこの頃だったように

記憶するが、文学座の研究生に誘われて、早稲田の木霊のレッスン

場兼ホールで、男2人、女2人の芝居をした。男性の一人が早稲田

の学生だったと思う。この後 結城さんのご主人阿部良さんのワー

クショップ、ここでは毎回台詞のあるエチュードを、自分で創作し

発表。一人でもよし、2人、3人でもよし、ただし自分で協力者を

探しお願いする。このワークショップの受講は、私に書くというこ

との種を貰ったように思う。その下地があって自分の子供のために

童話を書いたり、小さなエチュードのための芝居を書いたりするこ

とが、出来る様になったとおもう。

群像座に外参加の形で参加しチエーホフの熊、岡部耕太さんのトッ

テントン、プロデユース公演作品、岡村春彦さん演出の烈婦連に

参加したり、劇団に所属しない形を取っていた。


  (14)私の演劇行動をきめたのは?

広島でTVの劇団研究生の頃、東京の演劇界は、第一世代といわれ

る人たちの、既成の新劇に代わる新しい演劇、いわゆる小劇場運動

が生まれ始めていた。勿論これは上京後に知ったことで、私は六十

年代の安保反対運動も知識にすらなかった。 演劇学校に入って、

唐十郎の状況劇場の紅テント、鈴木忠志の早稲田小劇場、寺山修司

の天井桟敷、佐藤信の自由劇場などのことを知ったが、この人たち

の芝居を観たのは、卒業後だったように思う。

状況劇場は、腰巻き、お仙、私には理解不能、天井桟敷の青森県の

せむし男、でも自分の世界とは違って理解不能、早稲小の白石加代

子ショーは白石の存在感には圧倒されたけど、舞台表現には、拒否

反応があった、二度は見たいとは思わなかった。卒業後の歌舞伎町

の喫茶店を借りて、仲間が玄木と長英を公演した時、スタッフとし

て手伝い、そのとき同じ場所で、すまけいと大田豊治の動物園物語

が公演され、すまけいの演技にクギ付けになった。そしてそのこと

が、自分の演劇行動を決めた。自分が参加したい気持を重視する様

になった。芥川比呂志と縁はなかったが、上京の目標の、舞台の端

から端を歩けるようになったようにおもう。

舞芸時代の同級生Mと結婚、バレエスタジオの設立、出産と続き、

一時舞台の休業して、一年半後展望座に入り、児童演劇で、長靴

を履いたネコ、ファーブルの昆虫記、アりババと40人の盗賊、

赤頭巾、ファースト博士の冒険、ガンマンの影、女優兼振付担当