我的愛人 ~我的愛人~
第五章
「……溥儀とは?」
自分の肩にもたれかかる婉容の髪の香りが鼻孔をくすぐる。
「結婚以来、あの人私に指一本触れたことはないわ」
「そんな……嘘だろ……?」
「本当よ。私たちは偽りの夫婦だもの。愛なんてものは最初から在りはしないの。こんなに近くにいても、心は既に遥か彼方に遠ざかっているのよ。わかる顕㺭? 一国の為政者たるや形だけでも夫人がいないと体裁が悪いものね……」
ふたりは身体を起こして互いを見つめた。
「じゃあ君は本当にずっと独りで?」
「そうよ……彼はここに来てからずっと日本人のいいなり……いつも怯えて暮らしているわ……いいえ、ここに来る前から、あの人は私に興味なんか無いのよ。あの人にとっての興味の対象は清朝の再興と日本人のご機嫌を窺うこと。それと私ではない他の誰か。それが総てですもの。噂で聞いたことはあるでしょう?」
──そうだ……そんなくだらない噂なら幾らでも耳に入ってくる。けれど、それがまさか真実だったなんて!
「彼は私が存在していることすら忘れているのではないかしら?」
顕㺭から力無く視線を外して婉容は自虐的に寂しく笑った。
「畜生! 呪われるがいい!」
片手で顔を覆って吐き捨てる。
──そうだ……呪われるがいいさ! 溥儀も日本軍もこの偽りの国も! そして何より僕自身も! 婉容を不幸にするものは総て!
「でもいいの……私は何もいらない、望まない……貴方がいればそれだけで……貴方を想うことで、私は確実に生きていると感じることが出来るもの……」
むせび泣きながら言葉を紡ぐ、蕩けるような婉容の声を聞き、顕㺭はさらに強く婉容を抱きしめる。その腕に抱かれながら顕㺭の白い胸元に顏を埋める婉容は、傷痕にそっと口づけを落とした。
「顕㺭……」
不覚にもまどろんでいたのか、婉容の囁きにうっすらと眸を開けた。
薄闇の部屋に漂う紫煙が見える。
「婉容……?」
上半身を起こし軽く頭を振ってみる。そっとソファの肘掛に手をかけたのは煙管を手にした婉容。
「約束破ったな」
顕㺭の厳しい非難の視線を物ともせずに、婉容は静かに隣に身を寄せる。
「あら……許してくれなければ駄目よ……だって顕㺭も一緒に吸うのだもの」
「なに言って……」
驚く顕㺭を黙らせるために唇を重ね舌を絡める。この可愛い魔鬼を懲らしめようと、顕㺭は乱暴に婉容を抱き締めた。
「いや……」
喘ぎ声と共に唇がそっと離れる。
「お願い顕㺭……欲しいの」
「阿片? それとも僕?」
「両方……」
「まったく!」
「ねえ……貴方から吸わせて……私もう我慢が出来ないわ」
自分を見上げる潤んだ瞳。
自分の腕の中で、わざと耳元で囁く婉容の仕掛けた罠に顕㺭はあっさりと堕ちてしまうのだ。自分をみつめるつぶらな瞳、甘い誘惑の言葉……愛しすぎて総てをめちゃくちゃにしたくなる。そう、彼女にとって婉容自身が阿片にも等しい麻薬なのだ。
妖艶な笑みを浮かべて差し出す煙管を、顕㺭は苦く笑って受け取り、深く吸い込んで婉容の小さな顎を片手で引き上げる。
「大好きなの……顕㺭」
待っていたとばかりに自ら開いた婉容の唇に顕㺭はゆっくりと唇を近づける。
「僕は結局君には勝てないのさ……」
唇を重ね阿片を残らず婉容に注ぎ、彼女はそれを官能の中枢へと押し込むように深く吸い込んでゆく。
「……ああ……」
最初のあの死人のような青白さとはうって変わって、桜色に染まった身体、紅潮する頬。阿片によって甦ったかのような婉容の薄く開いた紅い唇から恍惚の喘ぎが紫煙と共に洩れる。
阿片は初めてではなかったが、どうも性に合わず敬遠していた。けれど今婉容と共に吸うこの禁断の紫煙に、顕㺭は何の抵抗も無く酔わされてゆく。前よりもさらに深く今度は味わうように吸い込んで、焦れて待つ婉容に口づけと共に阿片を送り込む。舌を絡ませ唾液を混ぜ合って離した二人の唇の間に銀色の糸が引く。
「すごい……クラクラする……」
口移しで阿片を吸い合うふたりはさながら媚薬の虜。身体の深奥が熱く疼き、淫らな欲望が際限なく込み上げる。乱れる思考、洩れる吐息、全身に絡みつく阿片の煙。そう、背徳など微塵も感じない。
「僕だけのものだ……誰にも渡さない……」
「お願い……手……握って」
ふたりの白い指が、もう決して離れまいと固く固く絡み合う。
「顕㺭……愛しているわ」
「……婉容……もっとその名を呼んで……僕が自分を見失わないように君のその声で呼ばれたい……」
「顕㺭……私だけの顕㺭!」
絡んだ指に力がこもる。抱きあうふたりに時間は無い。別れの刻はもうすぐそこまで来ているのだ。
作品名:我的愛人 ~我的愛人~ 作家名:凛.