我的愛人 ~我的愛人~
終章
窓を覆うカーテンを容赦無くすり抜けて、室内に射し込む弱い陽の光が、呪わしい夜明けの到来を告げていた。
「もう絶対に此処に来ては駄目よ」
乱れた軍服を整え、ソファに横になったままの婉容に別れの口づけを交わした後の、意外なその言葉に顕㺭は耳を疑った。
「何故?」
婉容は寂しく笑ってただただ首を横に振るばかり。
「君をこんな所に独りにさせておけない……必ず逢いに来るから」
紅い寝具に包まったまま婉容はさらに激しく首を横に振る。
「顕㺭は早くこの狂った国から逃げるのよ。関東軍と手を切って、自由になって。貴方なら何処へでも行けるはず……だからお願い逃げて……貴方の幸せが私の幸せなのだから……」
「何を馬鹿なことを……君が居なくて何が幸せだ……僕にはもう行くところなんて無い。君以外に戻る場所などあるわけないじゃないか……だからまた必ずここに戻ってくる!」
黒瞳からきらきらと零れる涙が枕を濡らす。顕㺭がそれを指で幾度拭っても転げ落ちる無数の小さな水晶玉は止まらない。
「今夜のことは一生忘れない。たとえ顕㺭と逢えなくなっても今夜の思い出だけでこの先生きていけるわ」
「婉容……」
自分に向けられる穏やかな微笑みは、まるで聖母の如く神々しい。けれどその微笑みの中に顕㺭は今こそ確かに見出してしまった。
彼女の救いようの無い諦観の念を。
「吉岡中将、こちらでございます!」
たどたどしい日本語の神経質な声。それとともに開けられる部屋の鍵。
「春英だわ! 顕㺭行って!」
「ちっ……あの女……口止めしたのに!」
時間はもう無い。
ふたりは見つめ合い、名残惜しむようにもう一度互いの唇を貪った。
「金璧輝! 貴様ここで何をしておる! 奥方の部屋で……何たる破廉恥な!」
乱暴に扉が開けられ、乱れた足音がなだれ込む。
女官の報告を受けた溥儀の監視役吉岡が、皺の中の落ち窪んだ眼をこれでもかというほどかっと見開き、両の拳を握りしめ全身戦慄き仁王立つ。
「清朝の王女といい気になっているのも今のうちだぞ。前線に行くなどと偽った上に奥方とこんな……閣下に対する反逆罪もいいところだ!」
いきり立つ吉岡を余所に、顕㺭はゆっくりと婉容から唇を離して鋭い眸を投げつけた。
「無粋な日本人だな……フン……何が閣下に対する反逆罪だ」
せせら笑って懐中に手を入れる。
「どうせ溥儀だって同じ穴の狢だろ?」
顕㺭がにやりと笑ったその瞬間、一発の銃声が夜明けの静寂を引き裂いた。
そして春英と呼ばれた女官がその場に卒倒した。
──誰かに知れたらお前の命は無いと言ったはずだ。
銃口をぴたりと吉岡に向けたまま、顕㺭は扉へと後ずさる。
「お前を狙ったつもりだったんだがな……まあ、いいさ。どちらにしろ、そろそろ用済みの僕を消す為のいい口実になるはずさ。図星だろ?」
「おのれ璧輝! この飾り物の総司令め!」
軍帽を深く被り直した刹那に、ソファに座りこちらを見護る婉容が小さく見えた。
「満洲から消え去れ! 東洋鬼子!」
吐き捨て身を鮮やかに翻して逃げる顕㺭の耳に婉容の悲痛な叫びが突き刺さる。
「待っているわ! 顕㺭!」
キーを挿し込みエンジンをかけ車を駆らせる。バックミラーに追手は映らない。
夜は完全に明け、夕焼けにも似た紅い朝の光がこの地を覆う。
打ち砕かれた清朝復辟の夢。この双手からすり抜けた幻影。
王道楽土・五族協和。自由と希望に満ちた現世楽園。
空々しい美辞麗句が帝国日本の傀儡と化したこの国の其処ここに今も虚しく舞い踊る。
「もう……絶対に此処に来ては駄目よ」
「待っているわ! 顕㺭!」
婉容が自分に向かって投げたこの見事な二律背反の言葉の意味が顕㺭には痛いほどよく分かる。
自分は何故今宵婉容に逢いに行ったのか。
彼女を愛しているからか?
日本人の陰謀の手先となって彼女を満洲国に送り込んだ罪悪感からか?
どれもそうだが、どれも違う。
自分の命がこの先、永くないと直感したからだ。
だからこそ無性に彼女に逢いに行きたかった。
そしてその想いは婉容も同じ。
あえて満洲の地で命を縮める真似はせずとも、いずれ間もなくあの世で逢える。その時を待っていると……。
すべてを諦めた婉容のあの寂しい笑顔を深く確かに脳裏に刻みつけて──。
顕㺭の頬に涙が伝う。
それは今までの曖昧とした自己との決別の涙だった。
漢人を装う金璧輝ではなく、もちろん日本人に踊らされる川島芳子でもない。
何時まで生きることを許された命なのかは知れないが、一人の中国人愛新覚羅顕㺭として、自分自身の為に、そして婉容の為に、君を想い続けて生きること、そのことを誓った喜びの涙でもあった。
最期の時は近いうちに必ずやってくる。
けれど息を引き取るその瞬間まで僕は君を愛し続けるだろう。
我が最愛の人……婉容。
了
「我的愛人」 ~我的愛人 完結です。
次シリーズ 「我的愛人」 ~何日君再来~ に続きます。
お読みくださりありがとうございました。
作品名:我的愛人 ~我的愛人~ 作家名:凛.