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闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅳ

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 だが、その日、わざわざ待機した女官長や趙尚宮は光宗のひと声で退散せざるを得なくなった。というのも、光宗が人払いを命じたからだ。
 光宗は部屋に入ると、大股で歩いてくる。
 誠恵は端座したまま、平伏して王を迎え入れた。
 二人きりになるのは、随分と久しぶりのような気がする。九月の初めに光宗が緑花を手籠めにしようとしたあの一件、更に世子暗殺未遂と不穏な出来事が続き、到底、逢えるような雰囲気でも状態でもなかった。
 光宗が誠恵に近寄り、跪く。手をつかえたままの誠恵の頬にそっと触れると、その手はつうっと下降して顎にかかった。顎に手を添えて持ち上げられ、光宗の顔が間近に迫る。
 逢わなかったのはひと月にも満たないのに、もう一年、いや十年も逢わなかったように思えた。
「元気にしていたか?」
 穏やかな声音で問われ、誠恵は頷いた。
「そなたに逢わなかった日々がやけに長く感じられてならぬ。まるで十年も顔を見ていなかったようだ」
 誠恵はクスリと笑みを零した。
「どうした、予が何かおかしなことを申したのか?」
 光宗は意外そうに訊ねる。
 誠恵は小さく笑み、首を振る。
「ご無礼致しました。殿下、私も今、丁度、殿下と全く同じことを考えておりましたゆえ、二人とも同じであったことがおかしかったのです」
 それを聞き、光宗も笑った。
「なるほど、予もそなたも互いを恋しく思うていたと、そういうわけだな」
 その時、唐突に光宗の顔から笑みが消えた。
「―そなたは真に心からそのように思うているのか?」
 問いの意味が判らないというように小首を傾げる誠恵の表情は、あどけなくさえあった。
 時には純真無垢な少女の顔を持ち、時には色香溢れる妖艶な熟女の顔を持つ。そうやって、くるくると表情を変え、男の心を掴み意のままに操っていく魔性の女。
 それが、張緑花という少女、いや、少年だ。
 三日前、柳内官から一部始終の報告を受けた光宗はその夜、大殿から緑花の許へ渡る途中も二度とあの女(男)に騙されるものかと息巻いていた。
 だが、久しぶりに緑花の顔を見ると、どうにも柳内官の話がすべて偽りのような気がして、緑花の調子に乗せられてしまう。もちろん、内侍府の調査に間違いなど、あろうはずがない。義禁府ですら調べ得ないこと、手に負えぬ事件でも内侍府の監察部に任せれば、忽ちにして片付く―そう言われるほどの優秀な部隊なのだ。
 今もつい、緑花の顔を見た嬉しさのあまり、親しく声をかけてしまったことを悔いている。
 一方、誠恵は、急変した光宗の態度に嫌な予感を抱いていた。とはいっても、別にひと月前のように乱暴されるとか、その手の危機を感じたわけではない。ただ、光宗の自分を見る眼が以前と違って冷めたものであることに気付いたのだ。
 ひと月前のことがあるだけに、突然の夜ののお召しを受けたときは不安でならなかった。が、現れた光宗の表情も態度も穏やかで、以前の誠恵がよく知る光宗に戻っていたので、ホッと胸撫で下ろしたばかりだった。
 ゆえに、再び冷ややかな態度を取り始めた光宗を目の当たりにして、衝撃は大きかった。
 急に黙り込み、口を引き結んだ光宗を見ている中に、誠恵の心に不安が漣のように湧き立つ。
 もしや、殿下は我が身が領議政の手先であることにお気づきになったのでは―。
 まさかとは思うが、その可能性が全くないとはいえない。
 そろそろ潮時なのかもしれない、と、誠恵は考えた。四日前、領議政孫尚善に月華楼で陵辱の限りを尽くされて以来、まだ香月からは何の連絡もない。
 だが、このまま手をこまねいていて良いはずがないのだ。尚善はこれ以上ないというほど残酷なやり方で裏切った誠恵を罰した。
―何度でも抱いて、私のことしか考えられなくしてやる。
 あの男は誠恵の身体を弄びながら無慈悲にも耳許で囁いたが、誠恵は少しも尚善に情を感じてなどいなかった。あれは、ただ屈辱と苦痛だけ与えられ、身体を奪われたにすぎない行為だった。
 あの男のために動こうとはさらさら思わないけれど、冷酷な男は、誠恵が〝任務〟を完遂しない限り、しつこく近づいてくるに違いない。もう、あんな辱めを受けるのは二度とご免だ。指一本触れられたくない。
 それに、村にいる家族も気がかりだ。誠恵がこのまま〝任務〟を果たせなければ、あの蛇のような男は今度は本当に家族にまで危害を与えるかもしれない。誠恵への見せしめとして、折檻ともいえる性交を強要したのが、その何よりの証だった。
 考えてみれば、今宵はまたとない好機ではないか! こうして国王の方から近づいてきたのだ。この際、余計な情や未練はきっぱりと断ち切り、国王の生命を奪えば、それだけで誠恵は楽になれる。領議政との腐れ縁から解き放たれ、懐かしい村に帰れるのだ。
 どうせ、この男も一時の激情で自分を慰み物にしようとした卑劣漢、領議政と同じ穴の狢なのだから、ひと思いに殺してしまえば良い。この千載一遇の好機を逃せば、次があるかどうかは判らないのだ。
 抱かれてしまえば男だと露見する危険があるのは判っているから、寸前―、もしくは正体を知られたまさにその時、ひそかに隠し持った匕首で息の根を止めるだけだ。
 だが、王はいつまで経っても、誠恵を抱こうとはしない。やはり、領議政の放った刺客だと勘づかれているのだろうか。
 不意打ちを食らわされたような想いの中に、ほんの少し混じった気持ちから誠恵は敢えて眼を背けている。それは、好きなひとを寝所に迎えながらも、指先一つ男に触れられない淋しさだ。
 誠恵は、押し寄せてくるやるせない哀しみと闘った。
 光宗が手を伸ばしてきたら、彼を殺さなければならなくなるのに、どこかで期待している自分がいる。全く矛盾している話だ。
「殿下、やっと私のことを思い出して下さったのでございますね。今夜は、朝までご一緒しとうございます」
 誠恵は甘えた仕種で、王の厚い胸板にしなだれかかる。
 光宗は光宗で、緑花の様子が明らかにおかしいと感じていた。一見これまでと変わらないように見えるが、微妙に違う。
 以前の緑花なら、こんなことは絶対にしなかったはずだ。光宗が違和感を憶えているのも知らず、緑花は媚を売るように身をすり寄せ、潤んだ瞳で見上げてくる。
 思わずその深い澄んだ瞳に吸い込まれ、溺れそうな自分を王は戒める。
 現に、王が夜着の前で結んだ紐を解こうとすると、かすかに身を捩り、王の手をほっそりとした小さな手で軽く押さえた。
 光宗の顔を嫋嫋とした様子で見上げ、恥ずかしげに頬を染める。光宗が緑花を見下ろすと、〝いや〟とうつむいて首を振り、光宗の胸に頬を押し当ててくる。それは男なら誰もが思わず守ってやりたいと思う―仔猫がしきりに甘えるような仕種であった。
―売女(ばいた)め。
 光宗は声高に罵ってやりたい衝動を懸命に抑える。
 多分、緑花は今夜、王が彼女を抱くと信じて疑っていないだろう。もしかしたら、この機に乗じて、ひと息に自分を殺すつもりかもしれない。刺客の緑花にとって、今夜はまたとない機会だ。夜着を脱がされれば、男であることが露見するのが判っていて夜伽を務めようとするからには、決死の覚悟でこの場に臨んでいたとしてもおかしくはない。