闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅳ
龍内官の声が無情な現実を突きつける。
何と里帰りを願い出た緑花が赴いたのは両班の屋敷などではなく、月華楼であった。当然だろう、緑花は貴族の娘などではなく、貧しい百姓の娘だったのだから。しかも、賤しい妓楼お抱えの娼婦だというではないか。
だが、この次の話は更に若い王の心を抉った。
月華楼の一室で、緑花は孫尚善と関係を持っていたというのだった―。それも数時間もの間、二人は部屋に閉じこもりきりだったという。先に領議政が妓楼を出て、それから一時間ほど後に緑花が出ていった。
「つまり、こういうことだな? 緑花は領議政の女だった。領議政が予の許に送り込んできたのは、自分が抱いた情婦だったということだ。そして、予は愚かにも、あの狸爺の想い者にひとめ惚れし、のぼせ上がって熱愛していたというわけだ!」
光宗は感情の持って行き場がなかった。
報告書を執務机に叩きつけると、両手で顔を覆った。
世子暗殺事件の後、光宗は緑花が刺客―しかも恐らくは領議政の放った暗殺者であることを知った。何より彼女が世子の首を絞めるところを目撃しているし、彼女が領議政の回し者であれば、光宗の煎薬に毒を入れようとしたことにも納得がゆく。
だが、光宗は緑花を信じていた。彼女は幼い誠徳君を寸でのところで殺さなかった。あれは緑花が他ならぬ光宗のために領議政を裏切ったのだと判ったが、たとえ領議政の回し者であったとしても、緑花が自分を害することないと信じていたのだ。
両班の娘でなかったのはまだ良い。だが、領議政の女だったという事実だけは許せなかった。しかも、国王である自分をずっと拒み続けていながら、その一方で領議政との関係を妓楼で続けていたとは、実に許しがたい。
―私は殿下を心よりお慕いしております。
光宗の腕に抱かれ、眼を潤ませて言った言葉の数々はすべて嘘だらけ、あの女にとっては、すべてが茶番で、光宗だけが躍らされていたということだ。
全く、涙も出ない悲惨な結末ではないか。
「殿下、緑花は、いえ、それも偽名にございますが―」
ここで柳内官はわずかに言い淀み、光宗の顔色を窺った。
「何だ、嘘八百でまんまと予を欺いたしたたかな女だ。名前が偽名であるくらいは当然であろう」
事もなげに言ってやると、柳内官は頷いた。
「まあ、真の名などどうでもよろしうございますが、張緑花というのは正確に申しますと、領議政の女ではございません」
そのひと言に、光宗はかすかな期待を寄せる。
「では、緑花は領議政の情人ではないと?」
が、柳内官が言いにくそうに続けた。
「いえ、そうではありません。彼が領議政の情人であることは間違いない事実にございますが、彼は領議政の女ではなく、男なのです」「―!!」
一瞬、あまりの衝撃に息が止まるかと思った。
「月華楼という廓は普通の遊廓ではなく、男娼ばかりを抱えた妓楼だとか。恐らくは緑花も眉目良きところを見込まれて、買われたのでしょう。何せ、あれほどの美貌にございます。これには私も流石に仰天致しました。まんまと最後まで緑花が女だと騙されるところにございました」
滔々と述べ立てる柳内官に向かい、光宗は低い声で呟いた。
「もう良い」
「殿下?」
「もう良いと言ったのだ。それだけ調べ上げれば十分であろう」
「では、緑花の処分をどう致しますか? 畏れながら世子邸下を殺めようとしたのも、恐らくは緑花の仕業と思えます。世子邸下を狙ったというだけで死に値する大罪にございますが、殿下のお薬に毒を仕込んだ罪も加えて、ついでに裏で緑花を操っていた領議政も片付けてはいかがにございましょう。証拠は十分ございますゆえ、いかの古狸でも罪は逃れようはございません」
光宗の漆黒の瞳に怒りの焔が燃え上がった。
「緑花の処分は追って決める。領議政についても同様だ。世子の外祖父でもあり大妃の父でもある男をそう易々と罪には問えん」
執務机では、龍を浮き彫りにした蝋燭が燃えている。その焔に照らされた光宗の横顔は石の像と化したかのようだ。
「殿下―」
「もう良いと幾ら言ったら、判るのだ? 今は何も考えたくない、いや、考えられぬ。頼むから、一人にしてくれ」
王のあまりに烈しい怒りと絶望に直面し、柳内官はかすかな戸惑いと大きな衝撃を受けた。
彼は自分が喋り過ぎたと思うより、王の緑花に対する想いの深さを知り、愕然とした。
柳内官の下がった後、光宗は奈落の底にいた。
これで、すべては辻褄が合った。
緑花が何故、自分を拒み続けてきたか、その理由が知れた。柳内官の報告を途中までしか聞いていなかった時点では、緑花が領議政の女だから、拒んでいたのだと勘違いしたが―。
よもや、あの可憐な少女が少年であったとは、こうなれば、もう安っぽい芝居よりも更に始末が悪いではないか!
あの娘、もとい、男が光宗に抱かれようとしなかったのは、褥を共にすれば、秘密を暴露してしまうからだ。それを自分は緑花の少女らしい恥じらいと受け止め、真剣に悩み、自分のどこがいけないのかと顧みた。
全く、笑える。笑いすぎて、頭がおかしくなりそうだ。
朝鮮王朝史上、最大の暗君・暴君と呼ばれている燕山君ですら、これほどの喜劇は演じたりしなかったことだろう。なのに、自分で言うのも何だが、〝聖君〟と民から呼ばれるこの身がたった一人の少年に心奪われ、良いように躍らされていたとは。
自分にとっては初めての恋だった。後宮には幾千もの女官がいるが、心動かされ、本気で愛したのは張緑花ただ一人だったのだ。だが、そんな女は、どこにもいなかった。光宗は幻の女に恋をし、ありもしない夢を見ていたにすぎなかった。
光宗は低い声で笑った。
おかしすぎて、涙が出る。くっくっと低い声で笑いながら、十九歳の若き国王は頬を涙で濡らしていた。
更に三日を経た夜、国王光宗は突如として女官張緑花に夜伽を仰せ出(いだ)された。緑花はその夜、自室に光宗を迎えることになった。
その前に、緑花は湯浴みを終えた。たっぷりと湯を湛えた湯舟に真紅の薔薇の花びらが浮いた風呂は、今宵、国王の褥に侍る女人のために特別に用意されたものだ。
通常は数人の女官の介添えによって湯浴みが行われる。が、緑花が〝幼少時に患った水疱瘡の跡が酷く残っているから〟と、身体を他人に見られるのを厭うたため、結局、一人で湯浴みを終えることになった。
湯浴みを済ませ、女官たちによって美しく化粧された緑花は白い夜着で国王を待つ。
光宗は夜がかなり更けても、姿を現さなかった。それでも、待ち続けねばならず、整然と整えられた夜具の傍らに端座している中にも刻はどんどん過ぎてゆく。
良い加減に待ちくたびれた頃、漸く
「国王殿下のおなり~」
と先触れの内官の声が響き渡り、部屋の戸が外側から開いた。部屋の前の廊下には、趙尚宮を初め、提調尚宮、女官たちが控えているのだ。ここに女官長が立ち会うのは、今宵、国王との初夜を迎える緑花が首尾良く事を済ませるのを見届けるためである。
翌朝、その事実確認を経て、緑花はやっと国王の女と認められるのだ。
作品名:闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅳ 作家名:東 めぐみ