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闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅳ

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 もっとも、月華楼の妓生たちは皆、男には見えない、いずれもが咲き匂う花のような風情のたおや女ばかりだ。少年期を過ぎて、うっすらと髭の剃り跡の残る中途半端な陰間は化け損ねた狐のように滑稽だが、彼らとは比べものにならない。
「お姐さん、ただいま帰りました」
 両手を組んで目上の人に対する礼をするのに、香月はいつになく硬い表情だった。
「お帰り、待ってたよ」
 両班家の奥方―と言っても通りそうなほどの気品と美しさを誇りながら、香月はひどく言葉遣いが悪い。
 この綺麗な顔から、どうしてこんな汚い言葉がポンポン飛び出してくるのか判らない。初めて香月に逢った五年前、誠恵は子ども心にそう思ったものだった。
 通常、遊廓の妓生たちは女将を〝お義母(かあ)さん〟と呼ぶが、何故か香月は〝お義母さん〟と呼ばれるのを嫌い、〝お姐(ねえ)さん〟と呼ばせた。香月の歳を知る者は月華楼にはいない。
 二十代と言っても通りそうな若々しさではあるが、先輩の妓生からひそかに聞いた話によると、既に三十半ばを越えているそうだ。
「二階で旦那(オルシン)がお待ちだよ。翠玉、一体、あんた、何で、あんな軽はずみしたんだえ?」
 〝軽はずみ〟というのが、領議政の孫誠徳君に手をかけたことを指すのはすぐに判った。
 うつむく誠恵をやるせなさそうに見、香月は溜息を吐き出した。
「いつもあたしが言ってただろ、客に惚れさせても、遊女が客に惚れちまったらならないって、さ。翠玉、客が王さまであろうが、その日暮らしの職人であろうが、理屈は皆、同じなんだよ? 妓生が男に惚れちゃならない、ましてや、あたしらは本物の女じゃないってことを忘れちゃ駄目だ」
 言いたい放題なようでも、香月が心底から誠恵の立場を案じているのは伝わってくる。
「ヘマをしちまったみたいです。ごめんなさい」
 涙が溢れそうになり、誠恵は唇を噛んだ。
「やっぱり、あんたには、まだ荷が重すぎたかねぇ。男を知らない初な翠玉には男を手玉に取るのなんて無理だったみたいだ。―あたたしが悪かったんだよ。あんたなら上手くやれると思って―、上手いこといきゃ、あんたも郷里(くに)の家族も一生楽して暮らせるだけの大金が転がり込むと思って、旦那に紹介したんだけど」
 香月の表情は暗かった。
 誠恵は何も言えず、黙って頭を下げる。土産の杏子が入った籠を渡すと女将の前を通り過ぎた。
 二階へと続く階段を昇り、磨き抜かれた塵一つない廊下を歩く。
 飼い主を裏切った狗(いぬ)に待つのは、何なのか。惨たらしい制裁か、潔いほどの呆気ない死か。
 流石に自分が辿るであろう末路を考えると、脚が鉛のように重く感じられる。
 だが、ここまで来た以上、ゆかねばならない。あの男と対峙しなければならない。
 それに、万が一、ここに来ず、逃げ出したとしても、都を出る前に放たれた追っ手に捕まってしまうだろう。そして、村の家族は皆殺しになる。領議政孫尚善とは、そういう男だ。一度裏切った者に対しては、どこまでも容赦なく制裁を加えるに相違ない。
 いや、裏切らずとも、自分の利にならぬと判断すれば、即、その時点で始末されてしまうだろう。他人の生命など、何とも思ってはおらず、すべての人間は我が身とその一族の栄光のために働くべきものだと信じ込んでいるような男なのだ。
 あの部屋―、かつて水揚げの客を迎えるはずだった部屋は廊下の突き当たりにあった。
 引き戸を静かに開けると、領議政は屏風を背にして、上座に座り手酌で酒を呑んでいた。
「大(テー)監(ガン)、お久しぶりでございます」
 態度だけは慇懃に腰を折り、両手を組んでひれ伏す目上の者に対する拝礼を行う。
 孫尚善もまた少しも変わってはいない。ちょっと見には穏やかで知的な印象は対する者に不要な警戒心は抱かせず、むしろ、安心感を与えるだろう。
 尚善は無言で顎をしゃくった。
 跪いていた誠恵は立ち上がり、更に一礼した後、机を挟んで向かい合った形で下座につく。
「しばらくぶりであったな」
 尚善は向かいに座した誠恵をちらりと見、また視線を手許の盃に戻す。
 誠恵は傍らの銚子をさっと取り上げ、差し出された盃になみなみと酒を注いだ。
「どうだ、宮殿での暮らしには少しは慣れたか?」
 淡々と訊ねてよこす様子には、怖ろしい企みを練っているようには少しも見えなかった。だが、それがこの男の底知れぬところだ。
 誠恵が何も応えずうつむいていると、フと含み笑う声が聞こえた。
「そなたの噂は後宮どころか、朝廷でも轟いている。わずかの間に、随分と名を馳せたものだ」
 どうせ、ろくな噂でないのは判っている。色香で若き国王を籠絡した妖婦などと言われているのだ。
「滅相もないことにございます」
 うつむいたまま応えると、尚善がスと立ち上がった。何を思ったものか、誠恵の傍にやってくる。
 互いの息遣いさえ聞こえるほど近くに、あの男がいる―。そう思っただけで、不覚にも身体の震えを止められない。
 尚善が誠恵の手を握り、力を込めて抱き寄せた。
「―!」
 誠恵にとっては、考えてもみなかった展開だった。
「何をなさいます?」
 強い力で引かれたため、呆気なく尚善の胸に身を預ける形となってしまった。
 誠恵は大いに狼狽え、抗った。
 わずかに酒の匂いを含んだ息遣いが耳許で聞こえた。
「私が何故、あの夜、お前を抱かなかったか、お前はその理由が判るか?」
 その言葉に、誠恵は抵抗を止めた。
 尚善の強い眼が刺し貫くように誠恵を見据えていた。何の感情も宿さぬ冷たい瞳。あたかも吹雪の夜を思わせる凍えるようなまなざしが眼前にあった。
「男女、いや、この場合はそうではないが、人の情というものは実に怖ろしい。ひとたび関係を持てば、身体だけでなく心までも相手に奪われてしまうことがある。翠玉、もし私があの日、そなたを抱けば、そなたが私に余計な情を抱くかもしれぬことを私は怖れた。何も自分を買い被っているわけではない。あくまでも、可能性の話だ。殊に、お前のような純情で男を知らぬ子どもは、初めて抱かれた相手に特別な情を抱いても不思議ではない。私を慕うことによって、そなたの任務に支障を来されては困る。他の男を想いながら、別の男の気を引こうとするような器用な芸当は到底お前にはできぬであろう」
 そこで、尚善は言葉を切った。
「だが(ホナ)、お前は私を裏切った。しかも、二度だ」
 二度裏切った―?
 その意味を計りかね、誠恵が眼を見開くと、尚善は口の端を引き上げた。やや肉厚の唇が笑みの形を象る。
「判らぬか? 一度めは国王殿下に心奪われてしまったこと、そして、二度目は世子邸下を殺そうとしたことだ」
 弁解のしようもなかった。どちらも真実だったからである。
 しかし、尚善は更に思いがけぬことを口にした。
「殿下に心奪われたのは良しとしよう。私のような年寄りではなく、殿下は血気盛んなお年頃、しかも男ぶりも良く、度量の広い方だ。若い娘だけでなく、同じ男でも惹かれずにはいられない。翠玉よ、私が最も怒りを憶えたのは、お前が殿下に最後まで身を任せようとしなかったにも拘わらず、殿下を心からお慕いしてしまったことだ」
「―」
 誠恵は顔を上げて、尚善を見た。