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闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅳ

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 しかし、時ここに至り、香月から帰ってくるようにと言われたのは、けして良い兆とは思えなかった。それもそのはず、手紙が届く二日前には世子誠徳君が何者かによって首を締められるという宮廷中を震撼とさせる事件が起こったばかりなのだ。その直後に月華楼に来いというのは、やはり領議政から何らかの伝言があるはずに違いない。
 ただ一つだけ不思議なことは、誠徳君が自分が首を絞められたときの状況について何一つ語ろうとしないことだった。
 幸運なことに、誠徳君は生命に別条もなく、翌朝には健康を取り戻した。だが、幾ら誰に何を問われても、幼い世子は
―急に背後から曲者に襲われ、首を絞められた。曲者の顔は一切見ていない。
 と、同じ科白を繰り返し続けた。
 周囲の者たちは、それでもなお世子から何か手がかりになることを訊き出そうとしたが、肝心の国王光宗が〝世子が科人の顔を見ておらぬと申すのだから、間違いはない〟と、それ以上の追及を禁じた。
 人々は大いに不服そうではあったが、国王殿下自身が不問に付すと言うのだから、不承不承従うしかない。こうして、世にも怖ろしいこの事件は人々の心に疑惑を残したまま、幕を閉じた。
 誠恵には、誠徳君が自分を庇っているのだとすぐ判った。光宗も世子の気持ちが判るからこそ、この件を沙汰止みにしたのだ。
―世子邸下。―浅はかな私をお許し下さい。
 誠恵は大妃殿に向かって、頭を深々と下げた。たとえ一時でも、誠徳君を殺そうなどと考えた自分を許せない。
 もう、自分はこれで世子に合わせる顔がないと思う。
 領議政がどれほど腹黒い男であろうと、幼い誠徳君には何の罪もないというのに。
 それでも、まだ世子は自分を殺そうとした誠恵を庇い口をつぐんでいる。
 たとえ何を棄てても、自分が信じるもの、最も大切なものは守らねばならない、たとえ生命を賭けても。
 世子の勇気ある行動は、誠恵の心を衝いた。
 誠恵は七歳の幼い王子に大切な何かを教えられたような気がした。
 光宗とは、ずっと話どころか、顔さえ合わせていない。光宗に乱暴な扱いを受けて気まずくなっていたところに、更に世子暗殺の事件が重なり、到底、話ができる状態ではない。
 光宗は世子を実の子のように可愛がっているのだ。世子に顔向けできないのと同じように、光宗にもまた、どんな顔をして逢えば良いのか判らなかった。
 光宗に手籠めにされかけたことは、今でも心の傷として残ってはいるけれど、だからといって嫌いになどなれるわけがない。
 趙尚宮の言うように、光宗の自分への気持ちを疑ったことはなかった。男の気持ちをあそこまで追いつめ、中途半端な態度を取り続けた自分がすべて悪いのだ。そのことで光宗を恨むはずがない。そう、今でも誠恵は光宗を心から愛している。
 これから先、自分たちがどうなってゆくのかは判らないが、とりあえずは領議政孫尚善の出方が気になった。
 月華楼の女将が後宮女官と拘わりがあってはまずい。誠恵は落ちぶれた貧しい両班家の娘ということになっている。一つには後宮に女官として上がるには身許調査が行われ、氏素性の確かな娘ではないといけない。
 また女将が領議政の異母弟であると万が一知れ、そこから領議政と誠恵の拘わりが露見するのを避けるためでもあった。ゆえに、月華楼との繋がりはひた隠しているのだ。
 〝張緑花〟は月華楼に帰るのではなく、実家(さと)方(かた)の屋敷に戻ることになった。趙尚宮は、母が体調を崩して寝込んでいる―という理由を怪しむこともなく、快く出宮を許可したばかりか、お見舞いと称して干し杏子を籠一杯に持たせてくれた。
 外出用の外套を頭からすっぽりと被り、誠恵は宮殿を出た。女官のお仕着せから、淡いピンクのチョゴリと蒼色のチマに着替えている。
 久しぶりに見る町は何もかもが懐かしかった。活気溢れる大通りの賑わいも、露店の主が声高に客を呼び込む声もすべてが躍動感をもって迫ってくる。
 良い匂いの流れてくる揚げ菓子を売る店の前を通り、いかにも若い娘の歓びそうな髪飾りや細々とした品を商う店の前を過ぎる。
 誠恵が身なりの良い若い娘と見た小間物屋の男は愛想良く声をかけてきたが、誠恵は笑って首を振った。
 まだ若い男で、〝今度、甘いものでも食べに行かねえか?〟と品物を売っているのか、誠恵の気を引きたいのかよく判らない話しぶりに、誠恵は曖昧に笑って通り過ぎる。
 目抜き通りの終わった四ツ辻では、大道芸人の一座が通行人に芸を披露している真っ最中だ。かしましい太鼓やシンバルの音がそこら中に響き渡るなか、まだ幼い少年が宙に張った綱の上で器用に飛び跳ねている。
 恐らく誠恵よりは幼い―、十歳にもなってないのではないか。少女とも見紛うほどの可憐さは、一歩間違えば好色な男たちの食指をそそる相違ない。
 派手な色柄の上着とズボンを身につけ、まるで地面を走るように、危なげなく綱の上を軽やかな脚取りで渡ってゆく。綱の高さは低く見ても、普通の民家の屋根よりは高い。
 少年が綱の上で一回転すると、見物客の中からどよめきが上がる。もしや落ちるのではと顔を背ける女もいた。が、少年は瞬時にピタリと鮮やかに綱の上に着地を決める。
 割れんばかりの拍手が起こり、少年は綱の上で恭しく客に向かってお辞儀した。周囲をぐるりと輪になって囲んだ見物人たちから雨のように小銭が飛び、少年は更に深々と礼ををする。
 綱渡りが終わるのを待っていたかのように、また賑やかな音楽が騒々しく鳴り渡り、今度は女面と男面を被った大人二人が楽に合わせて滑稽な躍りを舞い始めた。
 しばらく見物人に混じっていた誠恵は、再び歩き出す。
 大通りを幾つか抜け、その四ツ辻を曲がれば、遊廓が建ち並ぶ一角―いわゆる花街に差しかかり、その一つが月華楼であった。
 ここで暮らしていた時分は懐かしいと思うほどの愛着を自分が抱いているとは考えもしなかったけれど、いざ半年近くも離れていると、まるで我が家に戻ったような安堵を憶える。やはり十歳から十五歳まで、多感な思春期を暮らした場所なのだ。それは、女将の香月が遊廓の主人らしからぬ情に厚い人物で、誠恵を娘のように大切にしてくれたからでもあったろう。
 他の遊廓に売り飛ばされていれば、自分は今頃、とうに客を取らされ、夜毎、好色な男から男へと身体を弄ばれていたはずだ。それを思えば、十五の歳まで大切に育ててくれた香月には恩義を感じる。
 が、その傍ら、香月は異母兄である領議政から手駒として使えそうな少年を探せと命じられ、誠恵を指名した。いわば、領議政だけでなく、香月もまた誠恵の宿命を大きく変えた人物だともいえる。
 しかし、どういうわけか、五年間育ててくれた香月を恨む気持ちはあまりない。それはやはり、その間に香月が示してくれた情が本物であったからだろう。
 五ヵ月ぶりに逢う香月は少しも変わっていない。相変わらず美しく装い、崇拝者である男たちから贈られた高価な珊瑚の耳飾りや翡翠の腕輪を幾つもじゃらじゃらとつけている。
 こうして見ても、香月が男だとは誰も思いはしないだろう。凛として咲き誇る白百合のように気高い美貌である。