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闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅲ

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「畏れながら、世子邸下のお可愛らしいお顔を拝見しておりますと、実家の弟を思い出します。それゆえ、弟とは遠く離れていても、淋しくはございませぬ」
「そうか。緑花、私もそなたと同じだ。たとえ一緒に遊ぶ兄弟がおらずとも、そなたを姉のように思い慕うておるゆえ、淋しくはない」
「そのお言葉をお聞きして、私も嬉しうございます」
 誠恵は笑った。
 しかし、世子の表情はまだ浮かない。
「邸下、まだ何かお悩みがございますか?」
 優しく問いかけると、世子は考え深げな顔になった。
「緑花こそ最近、元気がないようだな。何かあったのか?」
 その何げないひと言に、誠恵は胸を打たれた。心優しい七歳の王子は、緑花の元気がないのを気に掛けていたのだ。
「いいえ、何でもございませぬ」
 世子を心配させぬように殊更明るく言うと、世子は黒い瞳をくるくると子栗鼠のように動かした。
「大妃殿で女官たちが噂をしておったぞ、そなたと国王殿下が喧嘩をしたと。お二人が夫婦喧嘩をしたゆえ、殿下はもう緑花の許にはお渡りにはなられぬとしたり顔で申しておったゆえ、物凄く腹が立った。こっそりと、その者のチマを踏んづけてやったら、その者は〝あれぇ〟と悲鳴を上げて見事に転んでおったぞ」
 その女官の声色まで真似る世子の話しぶりに、誠恵は溢れてきた涙を堪えることができなかった。
 ふいに泣き出した誠恵を見て、世子は愕いたように黒い瞳を瞠っている。
「噂は真だったのだな」
 世子は袖から手巾を取り出すと、誠恵の頬を流れ落ちる涙を拭いた。
「―ありがとうございます、邸下」
 世子は照れ臭そうに笑い、うす紅くなった。
「私がいつか転んで泣いていたら、そなたがこうして慰めてくれた。だから、これでおあいこだ」
 花の蕾が膨らむような笑顔に、心が明るくなる。類稀なる聡明さと優しさを兼ね備えた世子がこのまま成長すれば、いずれ光宗の跡を継いで、間違いなく聖君と呼ばれる国王となるに違いない。
 私は、この方を我が手で殺めようというのか。愛する男のために、前途ある少年を闇に葬り去るというのか。
 光宗だけでなく、この幼い世子を失うこともまた、この(朝)国(鮮)にとっては大いなる損失となるに相違ない。
「どうした、緑花。まだ哀しいのか?」
 小さな胸で一介の女官を案ずるこの王子の心こそが尊(たつと)いものだ。
 誠徳君は、朝鮮の繁栄を千歳(チヨンセ)、万歳(バンセ)のものにするためには不可欠であり、この国のゆく末を照らす小さな灯なのだ。その灯をけして消してはならない。
「いいえ、邸下。私には今、見えております。国王殿下が築いた朝鮮の繁栄を更に世子邸下がお継ぎになり、私たちのこの国がますます栄えてゆくその様がこの眼に確かに浮かんでおります」
―世子邸下、千歳(チヨンセ)、世子邸下、千歳。
 この時、誠恵の耳には確かに宮殿を埋め尽くす廷臣たちの歓呼が聞こえていた。
 自分とあのひとがもし結ばれたら、我が身が女であったら、こんな可愛らしく賢い王子を授かることができただろうか。
 叶うことなら、女の身に生まれたかった。せめて、次の世では生まれ変わって女になりたい。
 もし自分が女であれば、堂々とあの方の愛を受け容れられ、あの方をここまでお苦しめせずに済むのに。男でもなく女でもない半端な我が身がこれほど恨めしいと思ったことはない。
 だが、所詮は見果てぬ夢。自分が女になるなんて、あり得ない。あの方の愛を受け容れられない自分があの方のためにできるたった一つのことは―。
 誠恵はつと視線を動かした。その先には、あどけない笑みを浮かべた王子がいる。誠恵を信じ切っている、安堵しきった表情。
 ふいに、その整った貌に領議政孫尚善の顔が重なった。こうしてよくよく見ると、世子は外祖父によく似ている。最初の頃は光宗に生き写しだと思っていたものだけれど、血とは不思議なものだ。見方によっては光宗にも似ているし、領議政にも似ている。
 自分の人生を滅茶苦茶にし、狂わせた憎い男、孫尚善。この幼い王子は紛れもなく、あの男の血を引く孫なのだ。
 誠恵は一歩、世子に近づく。一歩、また、一歩と微笑みさえ浮かべて世子に近づいた。
―憎い孫尚善の血を引く王子など、死んでしまえば良い。
 誠恵の両手が王子の細い首にかかる。きりきりと力を込めて締め上げながら、誠恵は涙を流した。
 王子はしばらくもがいていたが、直にくったりと力を失い、動かなくなった。
 お許し下さい、邸下。
 誠徳君と出逢ってからの想い出の数々が甦る。笑顔、泣き顔、様々な表情が光の粒子のようにきらめきながら、脳裡を駆けめぐった。
―たとえ一緒に遊ぶ兄弟がおらずとも、そなたを姉のように思い慕うておるゆえ、淋しくはない。
 見上げてそう言ったときの愛くるしい笑顔が唐突に甦り、胸が苦しくなった。
 自分を姉だと言った七歳の王子、その生命を自分がここで奪うのか―。
 誠徳君のか細い首は、少し力を込めれば非力な誠恵でもすぐに折ってしまいそうだ。
 王子は気を失ったのか、眼を瞑り、ぐったりと四肢を投げ出して横たわっている。ここで、完全に息の根を止めてしまうことは簡単だ。まるで本当に死んでしまったかのようにピクリとも動かない。
 王子の顔を気が抜けたように見つめていた誠恵は愕然とした。
「まさか、そんな―」
 誠恵の瞼に、遠く離れて暮らす弟の面影が甦る。誠恵が知る弟は、五年前の五歳のときのままだ。貧しさゆえに人買いに売られ、連れられてゆく兄を泣きながら見送っていた幼い弟。
 できない、私にはできない!!
 今、王子の顔は、あのときの弟の泣き顔を彷彿とさせた。
 もしかしたら、王子は誠恵が首を絞めるところをはっきりと見たかもしれない。気を失ったのは一瞬の後だったが、真正面から近づいて首を絞めたのだから、見ている確率の方が高いには高い。
 この場に居合わせたのは誠恵と王子だけなのだから、たとえ見ていなかったとしても、王子が誠恵に襲われたと思うのは、ごく自然ななりゆきだろう。
 仮にこのまま王子の息の根を止めなければ、誠恵は今日中には世子を暗殺しようとした大罪人として義禁府の役人に捕らえられることは必定である。
 そんな危険を冒してまで、王子を助けるべきなのだろうか。王子が目ざめるまでに宮殿から逃走することは可能ではあるけれど、家族の安全を領議政に楯に取られているからには、身動きもろくにままならない。このまま宮殿にとどまり続けるしかないのであれば、やはり選択肢は一つしかない。
 このまま王子を殺してしまえば、自分の仕業だと露見することもないだろう。
 やはり、王子には死んで貰わなければならない。
 誠恵は王子に再び近づいた。とどめを刺そうと、その首に手を巻き付けようとしたその時、王子の固く閉じた眼の淵に涙が残っているのを見つけた。
―私がいつか転んで泣いていたら、そなたがこうして慰めてくれた。だから、これでおあいこだ。
 花のような笑顔でそう言い、手ずから誠恵の涙を拭いてくれた誠徳君。
 誠恵は眼を瞑り、唇をきつく噛みしめる。
 できない、できるはずがない。
 誠恵は眼をゆっくりと開き、王子の涙をそっと拭った。