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闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅲ

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「張女官、その有様は、いかがしたのですか? 殿下のご寵愛をひとたびお受けした女官を宮殿内で辱めようとする不逞な輩がいるとは―」
 言いかけた趙尚宮がはたと口をつぐんだ。
 他ならぬその国王から度重なる召し出しを受けても、誠恵が応じなかったことを趙尚宮は知っている。
「まさか、張女官」
 趙尚宮は絶句した。後宮の女官は王の女と見なされ、王が望めば、何があろうと閨に上がらねばならない。この娘は幾度も光宗の相手をしたにも拘わらず、王の誘いを真っ向から拒んだのだ。
 聖君と国中の民から慕われる世に並びなき賢君光宗。そんな彼ですらも、恋をしてしまえば、ただ一人の若い男になる。欲しい女を得たいと、つい力をもって女を我が物にしようとしたのだろう。
「―趙尚宮さま」
 誠恵は趙尚宮の胸に飛び込み、号泣した。
 趙尚宮は、これ以上人眼につかぬよう、誠恵を自分の部屋に連れていった。新しいチョゴリをそっと肩から羽織らせてやり、その肩を宥めるように叩く。
「国王殿下のお心を疑ってはなりませんよ。殿下は今もあなたを大切に思っておいででしょう。ただ、あなたは殿下のお心をあまりにも長い間、そのままにしておきすぎました。あなたがどうしても殿下の御意を受け容れられないというのなら、あなたは潔く身を退き、宮殿を去るべきだったのです。お心を受け容れられぬのに、殿下のお目に止まる場所にいるのは、あまりに酷ではありませんか?」
 趙尚宮の言葉は、もっともだ。誠恵は自分が光宗に対して取った仕打ちがいかに残酷だったか、初めて知った。
 泣きじゃくる誠恵の背を撫でながら、趙尚宮が小声で呟いたのを、誠恵は聞かなかった。
「可哀想に、誰が見ても似合いのご夫婦になるだろうと思うのに、あなたが殿下の御意を受け容れられない、どのような理由があるというのですか―?」

 そのとき以来、誠恵の脳裡から趙尚宮の言葉が離れなかった。
―あなたは殿下のお心をあまりにも長い間、そのままにしておきすぎました。あなたがどうしても殿下の御意を受け容れられないというのなら、あなたは潔く身を退き、宮殿を去るべきだったのです。
 趙尚宮の言葉は鋭く誠恵の心を突いた。それがあまりにも的を射ていたからだ。
 あのときに聞かされた科白が何度も耳奥でこだまし、誠恵の心を苛み、誠恵は我と我が身を責めた。
 食欲もめっきりと落ち、沈み込むことの多くなった誠恵を、趙尚宮はいつも気遣わしげに眺めていた。
 王に乱暴されそうになったあの事件から数日後、誠恵は一人、殿舎と殿舎の間の広場に佇んでいた。ここは世子誠徳君と初めて出逢った場所でもある。
―あなたがどうしても殿下の御意を受け容れられないというのなら、あなたは潔く身を退き、宮殿を去るべきだったのです。
 また、趙尚宮の言葉が甦る。
 誠恵は深い吐息をつき、思わず小さく首を振る。
 英邁な王も恋をすれば、血気盛んな年頃の若者にすぎなくなる。王をあそこまで追い込んだのは、他ならぬ自分だ。
 王の心を弄ぶつもりはなかったけれど、領議政に命じられた〝王の心を虜にして、意のままに操れ〟という命は、結局は同じことだ。
 自分は王の心をあんなにも深く傷つけていたのだ。
 王のために、自分に何かできることがあるのだろうか。
 改めて考えてみる。趙尚宮の言うように、今すぐ宮殿を去り、あの男(ひと)の前から姿を消すのが最善だとは判っている。でも、それでは〝任務〟が果たせない。
 〝任務〟が完遂できなければ、領議政孫尚善は自分だけでなく、その報復として、村で暮らす家族までをも容赦なく消すだろう。
 それだけは避けねばならなかった。
 巡る想いに応えはない。
 誠恵は孫尚善を憎いと思った。
 あの卑怯で残酷極まりない男さえいなければ、自分がこうまで苦しむことはなかった。
 大好きな男を苦しめることもなかった。
 孫尚善が光宗をひたすら憎み、亡き者にせんと画策するのは、ひとえに娘の大妃や孫の世子のためだ。もし、少し考え方を変えてみた、どうなるのだろう。光宗に向けるはずの刃を世子の方に向け変えたなら。
 孫尚善に空恐ろしい野望を抱かせる大元さえなくなれば、光宗の生命が狙われることは二度とないに相違ない。
 そこで、誠恵は暗闇にひとすじの光を見たような気がした。
 光宗ではなく、世子誠徳君を殺すのだ!!
 己れの出世欲を満たすための手駒、大切な世子をこの世から抹殺すれば、領議政の権力は忽ちにして失墜するだろう。
 あの男が哀しみ、絶望にのたうち回る様が眼に浮かぶ。もし、本当にそうなったら、どれほど溜飲が下がることか。
 自分を苦しめ続けるあの男に裁きの鉄槌を下すときがいよいよ来たのだ。
 もう一度、小さな溜息を零したその時、すぐ傍で可愛らしい声が聞こえ、誠恵は少しだけ愕いた。
 世子の無邪気な顔をこうして間近で見ると、先刻自分が考えていたことがどれだけ怖ろしい邪念に満ちた謀であったかを思い知らされた。先刻まで脳裡を支配していた忌まわしい考えを慌てて追い払う。
 たとえ一瞬たりとも、この愛らしい王子の生命を絶とうだなどと、自分は何を考えていたのかと茫然とした。
「世子邸下」
 自分を見上げて、にこにこと愛くるしい笑顔を浮かべる王子に頭を下げる。
「もう、お風邪は治られたのですか?」
 問えば、世子は満面の笑みで応えた。
「緑花が持ってきてくれた揚げ菓子は殊の外、美味しかった。苦い薬も、後であれを食べるのを愉しみに頑張って呑んだのだ」
「さようにございますか? あれは、畏れながら、私が作らせて頂いたものにございます」
 控えめに言うと、世子は眼を丸くした。
「あの揚げ菓子を作ったのは緑花だったのか!」
 小麦粉を練った生地に砂糖や干した果物を入れ、縄状に編んだものを油で揚げた菓子だ。
 誠恵は田舎の村で暮らしていた頃も、よくあの揚げ菓子を作った。むろん、宮殿の厨房で作るような上等のものではない。小麦粉の質も良くないし、干した果物なんて手に入るときの方が少なかった。砂糖なんてろくになかったから、甘い汁の出るといわれる草の根を潰して、その汁を甘味料代わりに使ったのだ。
 それでも、幼い弟や妹は美味しいと歓声を上げながら、幾つもお代わりして頬張った。
 貧しさのどん底で喘いでいたような生活の連続だったけれど、あの頃は家族皆が揃っていた。
―あの頃に戻りたい。
 誠恵は滲んできた涙をまたたきで散らし、微笑んだ。
「畏れ多いことにございますが、私は実家におりました頃も、よくあの揚げ菓子を作りました。弟や妹がとても歓んでくれたのです」
「緑花には弟妹がいたのだな」
 世子がしみじみとした口調で言った。
「緑花が羨ましい。私には腹違いの兄姉(きよう)弟妹(だい)は大勢いるが、同じ母から生まれた弟妹は一人としておらぬ。共に遊ぶこともできず、広い宮殿にいつも一人だ」
「―」
 誠恵が黙っているのを勘違いしたのか、世子が不安げに訊いた。
「そなたは実家の弟妹に逢いたいのか?」
「いいえ」
 誠恵は微笑み返し、しゃがみ込んで世子と同じ眼線の高さになった。