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闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅲ

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 哀しげな声、でも、地の底から這い出てくるような不気味な声でもある。
 誠恵は無意識の中に後ずさっていた。
「あ―」
 光宗を怖いと感じたのは、初めてだ。これまで毎夜のように二人で過ごしていても、こんな気持ちを抱いたことはなかったのに。
 そこで、誠恵は、自分が連れ込まれた部屋がかつて自分たちがひそやかな逢瀬を重ねていた場所だと気付く。
「殿下、一体、何を」
 じりじりと近づいてくる光宗が狼なら、多い詰められる自分は弱い野兎といったところか。
 誠恵は怯え切った眼で光宗を見上げた。
「何故、そのような眼で予を見る? 恋しい男に逢えれば、女はもっと嬉しげな顔を見せるものではないか?」
「殿下」
 誠恵は震えながら後退していったが、やがて、その背が壁に当たった。
 光宗の眼付きは尋常ではなかった。聖君と民からも讃えられる国王に何があったというのだろう?
「いや、そなたが嬉しい顔をするはずがない。そなたは予を慕うてなどおらぬのだから」
「殿下、それはあまりにございます。私の殿下をお慕いする気持ちは、ずっと変わってはおりません」
 誠恵が懸命に訴えても、光宗は鼻で嗤った。
「フン、口では何とでも言える。そなたの言葉はすべて嘘だらけだ。口先だけの言い逃れなどで、もう騙されぬぞ」
 一瞬、男であることが露見したのかとも思った。しかし、ならば、わざわざ、こんな人気のない場所に連れてくることはないはずだ。
 光宗は一体、何をするつもりなのだろう?
 寒くもないのに、身体が震える。
 光宗がついに手前まで迫った。
「緑花、そなたが予を拒む理由は何だ? 他に男がいるとでも? 予を焦らして、そなたは愉しんでいたのか?」
「そんな、私は焦らしてなんか」 
 言いかけた誠恵に、いきなり光宗が襲いかかった。誠恵は我が身に起こった事が俄には信じられなかった。
「や、止め―」
 言葉は熱い口づけに塞がれ、もがこうとする両腕は持ち上げて押さえつけられた。
―なに、どうして?
 何がどうなっているのか、判らなかった。十で遊廓に売られ、そこで育った誠恵は男娼と客が夜毎褥を共にするのを知っていた。香月は必要以上に誠恵に性的知識を授けようとしなかった。水揚げの夜、何も知らない純真で初な少年を好む客もいるからだ。
 ゆえに、誠恵は男女(或は男同士)が褥を共にしても、具体的に何をするのかは理解できていない。
 強引に舌を差し入れられ、口の中を蹂躙される。何度となく唇を重ねてきたのに、こんな嫌悪感を催すのは初めてだった。
 その間に、大きな手が誠恵の身体中をまさぐる。
 漸く、誠恵にも光宗が何をしようとしているのかが判った。
 優しかった光宗の笑顔が瞼をよぎり、消えていった。今、力ずくで自分の身体を犯そうとしているのが同じ男だとは思えない。
 のしかかってきた光宗の下腹部が腹に当たり、固い怒張したものが触れるのに気付き、誠恵はハッとした。
 そのときの誠恵の衝撃と恐怖といったら、この上なかった。光宗が自分と同じ男であるとか、裸にされてしまえば男だとバレる―、そんな意識はどこかに消えていた。
 ただ恐怖だけしかなかった。
「いやーっ」
 誠恵は力の限りを込めて、両手で男の身体を突いた。思わぬ反撃を受けて、光宗が一瞬怯む。その隙に誠恵は身をすべらせ、逃れた。
 部屋を走って横切り、両開きの戸に手をかける。
―怖い、怖い、誰か、助けて。
「いやっ、怖い。来ないで」
 背後に迫る気配を感じた誠恵は振り向いて、悲鳴を上げた。血走った眼がぎらついて、自分を射抜いている。以前の誠恵がよく知る穏やかな青年王はどこにもいなかった。
 女を暴力で我が物にしようとするしか頭にない、まるで荒れ狂う手負いの獣のようだ。
「国王殿下、お願いでございます。お許し下さいませ、お許し下さい―」
 誠恵は涙を堪えきれず、恐怖のあまり、とうとう泣き出した。
「予が怖いだと? 何故、怖いのだ。惚れておるなら、怖いことなどないだろう。国王が抱いてやると申しておるのだ。そなたは後宮の女官であろう。そなたを予が望むからには、そなたは予の意に従わねばならぬ」
 怖いと怯える誠恵が余計に光宗の欲情と怒りを煽っていることにも気付かず、誠恵は哀願した。
 優しいあの方が権力や暴力で自分を意のままにするはずがない。あくまでも光宗を信じていたのだ。
 手を伸ばしてきた光宗を見て、誠恵が悲鳴を上げた。
「そなたは予をそれほどまでに嫌うか」
 光宗の双眸に昏い光が妖しく瞬く。
 誠恵は夢中で扉を開けようとしたが、外から細工がしてあるのか、微動だにしない。
「誰か来て! 助け―」
 懸命に小さな拳で戸を叩き続ける誠恵の背後から再び徳宗が襲いかかる。
 業を煮やした光宗は先刻以上に容赦がなかった。背後から抱きしめた誠恵を突き飛ばすようにしてその場に押し倒すと、間髪を置かず上から覆い被さる。
 荒々しい仕種でチョゴリの紐を解こうとするが、上手くゆかず、怒りに任せて引きちぎった。
「いや! 止めて。殿下、どうか、お許し下さい―」
 焦らすつもりなんて毛頭なかった。
 光宗の他に好きな男もいない。
 最初から今まで、ずっと王だけを見つめ、恋い慕ってきたのに。領議政から課せられた〝任務〟と王への恋心の間でどれほど心揺れ、悩んできたことか。
「緑花、これでやっと予のものになるのだな」
 うわ言めいて言う光宗の口調は熱を帯びている。
 チョゴリを剥ぎ取られた次は、すぐに白い下着も脱がされた。
 後は上半身は胸に詰め物をした上に巻いている布だけだ。相当何重にも巻いているから、易々と解けはしないが、それも時間の問題だ。
 その気になれば、あっという間だろう。
 第一、触れられれば、本物の胸とは違うこのはすぐに判る。
 光宗は、真上から恍惚として誠恵の身体を眺めている。その蛇のような視線が胸にまとわりついていた。
「許してくれ、こんな形ででも想いを遂げねば、そなた恋しさのあまり予は気が狂うに違いない」
 その一瞬、凶暴な手負いの獣の中に、傷ついた男の顔がかいま見えた。
「殿下、国王殿下。お願いです、どうか、どうか、許して下さい、お止め下さい」
 誠恵は、このときとばかりに懸命に繰り返す。
 欲望に歪んだ凶悪な表情が束の間、消えた。
 素顔の光宗は哀しげに誠恵を見つめている。
 嗚呼、私がこのお方の心をここまで追いつめたのだ。
 光宗の言葉は正しいのかもしれない。たとえ、その気はなくても、結果として自分が若い王の心を弄んだことに変わりはない。
 誠恵は最後の力を振り絞った。すべての力を込めて光宗の身体を両手で押すと、今度は呆気なく逞しい身体は離れた。
 ガタガタと戸を揺らしていると、心張り棒が外れたのか、戸が開いた。
 誠恵はもう、後も振り返らず、夢中で走った。途中で立ち止まれば、光宗が追いかけてきそうで怖かった。
 漸く殿舎まで帰って自室に行こうと廊下を歩いていた時、趙尚宮が息を呑んで自分を見ているのに気付いた。
 あまりにも怯えていて、我が身が今、どんな酷い格好をしているか―半裸に近い姿になっているかも認識できていないのだ。人眼を気にしている余裕など到底ない。