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闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅲ

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 やはり、性急すぎたのが、いけなかったのだろうか。それとも、自分は身を任せるのは嫌悪感を感じるほど、緑花に厭がられているのだろうか。
 いや、緑花は、確かに自分を慕っている。
―私も心より殿下をお慕いしております。
 あの涙と言葉には嘘はなかった。にも拘わらず、あくまでも自分を拒む、その理由は何なのか。
 緑花には、自分の愛を受け容れられぬ真の理由があるのではないだろうか。
 光宗は暗澹とした想いに駆られていた。

 それ以降、誠恵と世子誠徳君が実の姉弟のように仲睦まじく遊ぶ姿が宮殿では、しばしば見かけられた。
 誠徳君は誠恵を姉のように慕っている。誠恵の方もまた幼い王子に離れて暮らしている弟の面影を重ねていた。
 一方で、光宗との仲は、すっかり疎遠になってしまった。いつもは口づけ以上は求めてこようとしなかった光宗が予期せぬふるまいに出たのは、あの場合、致し方なかった。
 幾ら聖君とは呼ばれていても、光宗もまた若い男に変わりはない。好きな女を腕に抱いていて、何もするなと言う方がおかしいのだ。お預けを喰らわされた犬のように待ち続けることが、どれほど男としての誇りを傷つけているか。誠恵も同じ男だから、少しは判るつもりだ。特にあの時、誠恵の方から求めたりしたのが、余計に光宗を煽ったのだろう。非は誠恵の方にあることも判っていた。
 あれから、何度か光宗から連絡があった。ついには趙尚宮を通じて、〝必ずいつもの場所に来るように〟と半ば強制的な命令まで届いたが、結局、無視する形になってしまった。
 その中に連絡もふっつりと途絶え、
―ついに高慢な思い上がった小娘が殿下の寵愛を失った!
 と宮殿中の噂となった。誰もが〝良い気味だ、それにしても、寵を失った女ほど哀れなものはない〟と半ば同情と好奇の入り混じった眼で誠恵を遠巻きに見ていた。
 月日は慌ただしく流れ、暦は九月に入った。日中はまだまだ暑いけれど、朝夕の風は、はや初秋の気配を孕んでいる。
 九月に入ったばかりのある日、誠恵は大妃殿からの帰り道を辿っていた。既に時は夕刻で、蜜色の夕陽が壮麗な宮殿の甍を照らし出し、さながら黄金色(きんいろ)の輝く波のように鮮やかに浮かび上がらせていた。
 考えてみれば、女官として入宮して、もう五ヵ月になる。いまだに領議政との約束を果たせてはいない。
 女官張緑花は落ちぶれた両班家の娘という触れ込みになっている。月華楼の女将からは定期的に手紙が寄越されるが、その手紙はすべてさる両班の未亡人を通して届く手筈になっていた。むろん、手紙の封筒には張夫人の手蹟で夫人の名が差出人として記されている。
 その夫人は張朱烈という零落した貴族の妻で、良人はもう数年も前に病死している。妻が昔、孫尚善の屋敷で尚善の奥方付きの女中をしていた縁で、この女を〝緑花の実母〟ということにしたのだ。その見返りとして、未亡人には尚善から法外な金が渡っているのはむろんである。
 今のところ、香月からの書状に〝任務〟を急かすようなことは何も記されていない。
 領議政は約束は守る男のようで、まだ〝任務〟も完了しておらぬ中から、誠恵の家族の住む村にも食糧や金を送ったらしい。その突然の贈り物は、あくまでも月華楼の女将からという建て前になっている。
 義理堅い男のようにも思えるが、考えてみれば、金品で拘束することで、余計に誠恵を身動き取れなくさせているともいえる。また、〝任務〟遂行のための条件を守るのは、逆にいえば、〝任務〟を果たせない場合には家族を殺すと言ったその条件を実行に移す場合もあるという意味合いにも取れる。
 つまり、〝計画が続行中は家族の生命は保証するが、裏切ったり、失敗したりすれば、家族をもただではおかぬ〟という暗黙の脅迫とも取れる。
 どこまでも計算高い男、怖ろしいほど頭の切れる男だと、つくづくその怖さを思い知らされた。
 沈みゆく太陽が甍の波の向こうへと消えてゆく。橙色に染まっていた空が徐々にゆっくりと色を変え、淡い桔梗色に染まり始めていた。
 自然はどこまでも偉大だ。人間の悩みなんて、あの夕陽の大きさに比べれば、何とちっぽけなものなのだろう。
 ごく素直にそんなことを考え、誠恵は帰り道を急ぐ。世子誠徳君が軽い風邪で寝込んでいるというので、菓子を持参してお見舞いに伺ったのだ。
 病気とは名ばかりで、大事を取ったらしい。無理に寝かせられた王子は大いに不満そうで口を尖らせていたが、誠恵を見ると、途端に上機嫌になった。
―世子には、薬よりも張女官の方が効くようですね。
 滅多に冗談を言わない謹厳な大妃が呟き、その場を笑いに包んだという一面もあった。
 誠徳君の笑顔が少しだけ元気と勇気をくれたようで、脚取りは軽かった。
 その時、突然、背後から口許を分厚い手で覆われ、息ができなくなった。
―もしかして、刺客であることを知られてしまった?
 或いは光宗の叔父、左議政孔賢明に正体を勘づかれたか。
 万事休すだ、正体が知られては、自分ばかりか家族の生命まで危ういのだ。
 誠恵は渾身の力を出して暴れた。相手は女と見て、侮っていたに相違ない。一瞬口を覆っていた手が離れたかと思うと、すぐに布を口に押し込まれた。おまけに目隠しまでされてしまっては、どうにも抵抗のしようがない。
「うう―」
 悲鳴を上げようとしても、声が出ない。
 このまま殺されるのかと考えると、流石に鳥肌が立った。
 軽々と肩に担ぎ上げられ、荷物のように運ばれてゆく。誠恵は両手で自分を連れ去る曲者の身体を思いきり叩いた。
 だが、屈強な身体はビクともしない。
 途中で人の話し声が向こうから近づいてくる気配がして、誠恵は助けを求め、手を差しのべて懸命にもがいた。
 だが、どうやら女官たちのものらしい話し声は呆気ないほどの速さで通り過ぎ、やがて遠ざかっていってしまった。
 何故、彼女たちは狼藉者に連れ去られようとしている自分を見ても、助けてくれなかったのだろうか。
―ああ、行ってしまった。
 誠恵は絶望的な想いに突き落とされた。
 どれだけ歩いたのか判らないと思う頃、目的地に着いたらしく、扉が軋む音が聞こえた。
 乱暴な扱いを受けた割には、静かに降ろされ、ひんやりとした感触から、そこが床であることが知れた。次いで、目隠しが解かれる。
 灯りもない部屋に、ぼんやりと人影が浮かび上がる。宮殿には、これまでの幾多の政変、陰謀で生命を落とした亡霊がさまよっているという。よもや、そんな亡霊の仕業かと現実的な誠恵も一瞬、ゾッとした。
 目隠しをされていたので、眼の焦点がなかなか合わない。やっと周囲のものが普通に見えるようになった誠恵は愕きに眼を瞠った。
「国王殿下―」
 道理で、先刻すれ違った女官たちが自分を助けてくれなかったはずだ。国王が厭がる女官を抱えて連れ去ろうとしたからといって、誰があからさまに異を唱えるだろう。王の所有物と見なされる女官は、王に求められれば、その意に従うのは当然のことなのだ。
 だが、すぐにおかしいと思った。いつもの優しい春の陽溜まりのような彼ではない。王衣こそ纏っているものの、血の気のない顔、虚ろな眼は、それこそ彷徨う亡霊のようだ。
「緑花、どうして、そなたは予から逃げる?」