闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅲ
王子がムウと口を尖らせるのを見た光宗は、声を立てて笑った。
「なるほど、そなたの申すとおりだ。済まぬ、世子よ。親というものは、子はいつまでも幼いままだと思いたがるものなのだ」
「叔父上、私は大きくなったら、緑花を妻に迎えることに決めました。先日、緑花が転んで泣いていた私を助けてくれたのです」
無邪気な発言ではあったが、一瞬、光宗の背後に控える内官や尚宮たちが意味ありげに顔を見合わせた。
しかし、光宗は顔色も変えず、世子を腕に抱いたまま優しく言った。
「それは聞き捨てならぬ。世子、緑花は既に予の妃となっておる。予の妻である緑花をそなたにやることはできぬ」
「さようにございますか。緑花は女官の服を着ておるゆえ、叔父上のお妃とは存じませんでした。叔父上、緑花は特別尚宮なのですね」
それが七歳の子どもの想像力の限界であったろう。国王の夜伽を務めるのは正式な側室の他に、〝特別尚宮〟、〝承恩尚宮〟と呼ばれる尚宮が存在した。これは趙尚宮のような役付きの尚宮とは異なり、国王の寵愛を受けた女官を一般の女官とは区別して、特別待遇を与えるための名誉職としての呼称である。
〝尚宮〟と名はついても、特に仕事があるわけでもない。ただ〝特別尚宮〟として認められることは、後宮―つまり側室としては認められないということでもあった。〝特別尚宮〟の呼称を与えられた者が側室になることはない。きらびやかな衣服を纏う妃たちとは異なり、〝特別尚宮〟は女官のお仕着せの制服を着用するのだ。
王子の無邪気な言葉は、更にその場の雰囲気を凍らせた。誠恵が光宗の寵愛を受けながら、側室になるようにとの意を拒み続けていることは誰もが知っている。提調尚宮などは
―殿下の思し召しをご辞退申し上げるとは、全く身の程知らずな娘だ。側室にはならぬと申すなら、この上は中殿の座でも望む気か? ご寵愛が厚いことを傘に着て、高慢になるにも程がある!
と、誠恵の不遜さを憤っているという。
そのような意見が後宮や朝廷でも多いのは事実だった。
「まあ、そういうことだな」
気まずい雰囲気の中で、光宗一人だけが顔色も態度も変えなかった。
光宗は笑いながら言い、世子をそっと降ろす。
「そうですか、それでは、叔父上。私は諦めます。叔父上の大切なお方を私が妃に迎えるわけには参りませぬ」
世子は邪気のない様子で元気よく言い、今度は誠恵に言った。
「緑花、国王殿下が世子である私の父上ならば、殿下の妻のそなたは、私の母上にもなる。これからは母上と思うても良いか?」
「―はい」
この場合、そう応えるしかなかったが、やはり、光宗に付き従う尚宮や内官たちの反応が気になる。
側室でもないくせに、世子の母親気取りだ―などと言われてはたまらない。
と、光宗の傍らに控えていた柳内官が呟くように言った。
「殿下、真に微笑ましい光景にございます。我らには、まるでお三方が実の親子のように見えてなりませぬ」
その言葉に、誠恵は愕然とした。それでなくとも、世子の無邪気な言葉でおかしくなったその場の温度が更に低くなったような気がした。
皆の冷たい視線が一斉に自分に向けられ、無数の氷の刃がその身に突き刺さっているようだ。
「私は、これで失礼致します」
たまらず誠恵は頭を下げると、逃げるようにその場から走り去った。こんな去り方をしたお陰で、また〝あの娘は国王殿下と世子邸下の御前で無礼を働いた〟と囁かれるのは間違いない。
泣き声の聞こえない場所まで走ってきた誠恵は、堪らずすすり泣いた。折角乾いた涙がまた溢れてしまった。
しゃがみ込んで、顔を伏せて泣いていると、背後からそっと肩に乗せられた温かい手があった。
「緑花」
抑揚のある深い声は、光宗その人であることはすぐに判った。
光宗は思いやりのある人だ。あの場で誠恵が居たたまれなくなってしまったことも十分理解している。だから、尚宮や内官を置いて、たった一人で逃げ出した誠恵を追ってきたのだ。
だが、王の優しさが時折、徒になることもある。今頃、血相を変えて女の後を追いかけていった国王を、内官や尚宮たちは渋い顔で見送っていることだろう。
そして、結局は誠恵が悪者になる。
張緑花はその色香で殿下を誑かし、意のままに操ると。
すべては領議政孫尚善に言われたとおりになった。若い王は誠恵の魅力の虜となり、美しき花にいざなわれる蝶のように魅せられている。
後は、寄ってきた蝶を隠し持った毒の棘でひと突きにし、その息の根を止めるだけ。
それで、〝任務〟は完了する。
なのに、どうして、こんなにも哀しい?
どうして、こんなにも哀しくて、やるせなくて、涙が止まらないのだろう?
「何故、あのように突然、いなくなった?」
優しく問われ、誠恵は嫌々をするように小さく首を振る。
「そんなに優しくしないで下さい。殿下、私は殿下のお側にいる価値のない女なのです」
光宗は誠恵の両肩をそっと掴むと、立ち上がらせた。温かな手のひらで彼女の頬を包み込み、顔を上向かせる。
「予がそなたを望んでいる。そなたでなければ駄目なのだ、緑花。そなた以外の女など要らぬと思うほどに、予はそなただけを求めている。だから、そなたは何も気にする必要はない。大威張りでここに、予の傍にいれば良い。それとも、そなたは、こうまで申しても、予の傍を離れると申すか?」
「いいえ、いいえ! 殿下、私も殿下のお側にずっといとうございます。私がお慕いするのは未来永劫、殿下お一人でございますもの」
口にしてから、緑花が今の言葉が自分の本心だと初めて気付いた。
ずっと、この男の傍にいたい。
だが、それは所詮、叶わぬ望みというもの。
自分は女ではなく、男、しかも領議政に送り込まれた刺客なのだから。
夢はいつか醒める。
だが、いずれ醒める夢ならば、今だけは夢に浸っていたい。
誠恵が眼を閉じると、残った涙の雫がつうっとすべらかな頬をころがり落ちる。
その涙を唇で吸い取りながら、やわからな頬をなぞっていた光宗の唇がやがて花のような誠恵の唇に辿り着く。
貪るような烈しい口づけは、男の恋情を余すことなく伝えてくる。薄く口を開くと、男の舌が入り込んできて、誠恵は自分から男の舌に自分の舌を絡めた。
いつになく積極的な誠恵の反応に、光宗も情熱的にこたえる。深く唇を結び合わせながら、光宗の手がそろりと動き、誠恵のチョゴリの紐にかかった。
口づけに夢中になっている誠恵は気付かない。紐を解いた男の手がやわらかな胸に触れようと懐に侵入しかけた。
その寸前、誠恵はうっとりと閉じていた瞳を見開いた。
「―!」
烈しい驚愕と狼狽が可憐な面にひろがる。
身を翻して逃げ出した誠恵の背に、王のやるせなさそうな呼び声が追いかけてくる。
「何故だ、緑花。どうして、予から逃げるのだ」
光宗の端整な貌に酷く傷ついた表情が浮かんだ。その横顔には拭いがたい暗い翳が落ちていた。
何故、あれほどまでに自分を嫌うのだろう。いつもは口づけても、なされるままになっている緑花が珍しく自分から積極的にこたえ、求めてきた。とうとう緑花が頑な心を開き、自分のものになってくれるのではないかと期待した。
作品名:闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅲ 作家名:東 めぐみ