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闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅱ

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 緑花は何かを思い出すような眼で、少しずつ言葉を吟味するように応える。
 この場の雰囲気から、迂闊なことは口にできないと判断したのだろう。天真爛漫ではあるが、そういった場の空気を読むだけの聡さはある少女だ。
「私はその時、趙尚宮さまのお薬を頂きに上がったのです。趙尚宮さまは今朝からずっと頭痛がすると仰って、お部屋で伏せっていらっしゃったのです。いつもお元気で〝疲れた〟などと一度も仰ったことのないお方がいつになくお疲れのご様子でしたので」
 心底心配そうに訴えるその表情、声からも、ひとかけらの嘘も感じられない。
「そうか。趙尚宮ももうトシだからな。あまり無理は禁物だ」
 と、光宗は当人が聞けば、〝心外な。私はまだまだ、殿下にそのようなご心配頂く歳ではございませぬ〟と激怒するようなことを笑いながら言った。
 老年の趙尚宮は、光宗がまだ襁褓にくるまれた赤児の頃から知っているのだ。国王となった今でも、光宗は趙尚宮に一目置き、時には〝怖いお婆さま〟と揶揄する。
 実は、今日の夕刻、光宗は他ならぬ当の趙尚宮を直々に大殿に呼び、頭痛はどうかと体調を訊ねた上で、頭痛薬を特に賜っている。
 趙尚宮は国王が自分の頭痛を知っていることに愕いていたが、王手ずから薬を賜ったことで、恐縮して下がっていった。
 つまり、少なくとも毒を盛ったか云々は別として、緑花は嘘は言ってはいないということになる。
 そこで、光宗は小さな溜息を零した。
「いかがなされました? とてもお疲れのご様子でございます。お顔の色が優れませぬ」
 緑花が心配そうに言うのに、光宗は力なく笑った。
「いや、別に疲れてなどはおらぬゆえ、そなたが案ずることはない。ただ、今日、少し気になることを耳にしたのだ」
 光宗は大きく首を振った。
「緑花、予は、どうも隠し事のできる質ではないらしい。およそ上手く立ち回るすべなど心得ぬ愚直な男だ。両班家に生まれたれば、多分、承相どころか、中級官吏にもなれず、一生出世などできなかったであろうな」
 半ば自嘲めいた笑みを浮かべ、緑花を見る。
「そのようなことはございませぬ! 私は、緑花は、殿下のそのような―真っすぐで大らかなところが大好きでございます」
 緑花は慌てて真っ赤になり、恥ずかしげに面を伏せた。
「言葉が過ぎました。どうか、お許しを」
「いやいや、なかなか嬉しいことを申してくれるではないか。緑花、可愛らしい頬が熟した林檎のように紅いぞ?」
「そんな、真にございますか?」
 両手で頬を押さえ、更に紅くなっているところがまた、何とも愛らしい。
「緑花、予が悪かった。たとえ一瞬でも、そなたを疑った予が悪かったのだ」
 これほどまでに愛らしい暗殺者がいるものか。ここまで一途に自分を慕う女が他ならぬ自分を毒殺などできるはずがない。
「緑花」
 名を呼んで、両手をひろげると、恥ずかしそうにしながらも近寄ってくる。華奢な身体を引き寄せ、抱えて膝に乗せると、光宗は緑花の顔を覗き込んだ。
「予は隠し事はできぬゆえ、単刀直入に話そう。今日の昼、そなたが薬房にいたのは、予の呑む煎薬に毒を入れるためだと申すものがおってな」
 そんなことを言ったのが誰なのかは、聞かずとも判るだろう。緑花は聡明な娘だ。
「現実として、予の薬を煎じていた土瓶には毒が混入していた。そのことを予に報告してきた者が直接、味を調べて確かめたそうだ」
 光宗の話に聞き入っていた緑花の大きな瞳が見る間に潤んだ。その眼に溢れた透明な雫が王の心を鋭く抉る。
「殿下は、私をお疑いなのでございますね?」
「疑っているわけではない。疑っておれば、予を殺そうとしたそなたに、この話をするはずがなかろう」
 光宗は緑花の艶やかな黒髪を撫でた。
 女官は皆、お仕着せの制服がある。一応、紅は入っているものの、薄鼠色の地味なチョゴリに、海老茶色のチマで、髪は後ろで一つに編んで、やはり紅い飾りで束ねる。動きやすい実用的なスタイルだ。
 国王の妃―王妃や側室ともなれば、きらびやかなチマ・チョゴリを纏い、髪にも手にも綺羅綺羅しい飾りや宝玉をつける。
 光宗は、よく華やかに装った緑花の姿を想像してみることがある。まだ年若い彼女には上品な桃色の衣裳が似合うに相違ない。チョゴリはいっそのこと少し落ち着いた鶯色で、チマは華やかな桃色というのは、どうだろう。
 髪も成人した証として高々と結い上げ、惜しげもなく高価な簪で飾れば、いかほど見映えがするだろう。十五歳でこれほど美しいのだ、あと数年経てば、大輪の牡丹が一挙に花開くように艶やかでいて、可憐な美貌を持つ貴婦人に育つに相違ない。
 光宗がしばし、愉しい空想に心躍らせていると、哀しげな声音がそれを遮った。
「殿下、私はもう、殿下のお側にはいられませぬ」
「何故だ? 突然、そのようなことを申す理由は何だ」
 光宗は慌てた。緑花の顔をまじまじと見つめると、その瞳から、とうとう大粒の涙がころがり落ちた。
「私が殿下のお側にいることが気に入らぬお方がこの宮殿にはあまりにも多いようにございます。賤しい身の私は、誰に何を言われても構いはしませぬ。ただ、こうして殿下のお顔を見て、お声を聞いていれば、それだけで幸せなのです。でも、たとえ何を言われたとしても、私が殿下のお生命を狙い奉ったなどと、そのような怖ろしいことだけは耳にするにも耐えられそうにありません。これほど恋い慕うお方のお生命を狙うだなんて」
 それでも泣き声が周囲に洩れるのをはばかってか、緑花は声を殺して忍び泣く。泣くときさえ、思いきり心のままに泣くこともできぬ女への不憫さが光宗の心を重く沈ませた。
 また、生涯の想い人とまで愛する女をそのような境遇に置いたままの自分にも厭気が差す。
「緑花、緑花。もう、泣くでない」
 光宗は、泣きじゃくる緑花の背を幼子にするようにさすった。
「予が悪いのだ。このようなことをそなたの前で口にするべきではなかった、―許せよ」
「殿下、私にお暇を下さいませ。明日の朝一番に、私は出宮致します。もう二度と殿下の御前に現れたりは致しませぬ」
「それはならぬ。緑花、そなたは予の宝ぞ。予がそなたに無理強いをせず、ずっと待っておるのは、そなたの身も心も欲しいゆえだ。予は、いつか遠からず、そなたが予のものになると信じておる。そなたこそが、予の伴侶となる女であり、予の子を生むべき女なのだ。これは予からの頼みだ、ずっと予の傍にいて、予と共に生きてくれ」
 これが光宗から緑花への事実上の求婚の言葉になった。
 確かに、自分にとって、この女は得難い宝だと光宗はこの時、改めて思った。緑花に出逢うまで、彼は生涯妻を娶るつもりもなく、子をなすつもりもなかった。王室内でくりひろげてきた血で血を洗う王位継承を巡っての争い―、その愚かな過ちを繰り返す気はなかったのだ。
 しかし、張緑花という一人の少女にめぐり逢い、彼の心は変わった。仮に自分に王子が誕生としたとしても、世子である誠徳君に位を譲る決意はいささかも変わってはいないし、これからも変わることはないだろう。