闇に咲く花~王を愛した少年~
「そういえば、まだ、そなたの名を訊いていなかった」
思い出したように訊ね、王が笑う。
「緑(ノク)花(ファ)にございます」
「緑―花」
王が呟く。何故か、王が自分の名前―あくまでも仮のものだが―を呼んだ時、誠恵は自分の心臓が跳ねるのを感じた。
「良い名前ではないか。緑花、緑の花か。楚々とした花のようなそなたには実にふさわしい名だ。緑花、見たところ、そなたは刺繍ができ、教養も兼ね備えた人のようだ。これだけの刺繍をするとなれば、いずれ名のある家門の令嬢だと察するが、現実として、そなたは町外れで行き倒れていた。あのときのなりは、到底、名家の娘とは思えない代物であったが、あれは、一体どういうことなのだろう?」
何故か煩くなる鼓動を抑えつつ、誠恵は息を小さく吸い込む。
さあ、これからが腕の見せどころだ。
誠恵は、いかにも辛そうな表情を作り、うつむいた。
「取るに足らぬ私の身の上話など、到底、お聞かせするようなものではございませぬ。明日の朝には、このお屋敷を出て参りますゆえ、どうか、何もこれ以上、お訊きならないで下さいませ」
と、王は慌てたように言った。
「私は何も、そなたに出てゆけと申したのではない。もし、名家の令嬢でありながら、屋敷を出ねばならぬような理由があるのであれば、何かそなたの力になってやれるのではないかと思うたまでのこと、話したくないのであれば、話さなくとも良い。伯父上には私の方からよく話しておくゆえ、好きなだけ、ここにいれば良いのだ」
誠恵は両手を組み、固く握り合わせると、眼に涙を浮かべた。
「旦那(ダーリー)さま、私は心苦しいのでございます。ただ居候になっているだけでは申し訳なくて、何かお手伝いさせて頂くことがあれば、させて頂きたいと左相(チヤサン)大(テー)監(ガン)にお願いしても、大切な客人ゆえと言われます。ゆえに、こうして、部屋で刺繍など致しておりました」
「それは、伯父上の仰せが当然だろう。私は、そなたを賓客としてもてなして欲しいと頼んだのだから」
誠恵は、うなだれる。
「拝見しましたところ、旦那さまは両班のご子息のようでいらっしゃいます。どうか、旦那さまのお力で私を女官として宮殿に上がれるように取りはからって頂けませぬか?」
「何と、女官になると?」
王の整った面に軽い愕きがひろがる。
誠恵の眼に大粒の涙が溢れた。―むろん、嘘泣きである。
「私には最早、女官になるしか、生きる道はございませぬ」
王が息を呑む気配が伝わってきた。
「何ゆえ、そのように思いつめるのだ? 伯父上がここを出てゆけとでも申したのか?」
顔色を変えた王を、誠恵は哀しげな眼で見つめた。
「いいえ、左相大監は、そのようなことは少しも仰ってはおりませぬ。私の一存にございます」
「では、何故―」
王は勢い込んで言いかけ、自らを落ち着かせようとでもするかのように声を落とした。
「そなたは知らぬかもしれないが、女官の宿命(さだめ)というものは厳しい。生半な気持ちでは務まらぬぞ」
物問いたげな眼を向けると、王が小さな吐息をつく。
「後宮の女官を喩えた言葉に、このようなものがある。人知れず咲いて散る花、と」
「人知れず咲いて散る花」
誠恵が王の言葉をなぞると、王は吐息混じりに頷く。
「何故、女官がそのように喩えられるか、そなたには判るか?」
そっと首を振る。
「後宮に仕える女官はすべて、国王のものということになる。むろん、それはあくまでも建て前上で、現実には、すべての女官が国王の妃になるわけではない。しかし、ひとたび後宮に入って女官となれば、たとえ下っ端であろうとも王の女と見なされ、生涯、宮殿を出ることは許されず、婚姻も叶わなくなる」
「誰の眼にも触れることなく、ひっそりと咲き、手折られることもなく、散ってゆく。だから、人知れず咲いて散る花なのですね」
〝そうだ〟と、王はやるせなげに頷いた。
「そなたは幾つになる?」
問われ、誠恵は素直に応えた。
「十五になります」
「十五、か。その歳で人知れず咲いて散る花になる宿命を強いられるのは、あまりにも若すぎる。緑花、私は、そなたにそのような酷いさだめを荷したくはない」
王が心から誠恵のゆく末を案じているのだとは判る。
―この男は、優しい。
誠恵の心がしきりに疼く。この優しい男を自分は騙そうとするどころか、最後には生命さえ奪おうとしているのだ。
できることなら、現実から眼を背けたかった。
だが、誠恵と家族の生命は、あの卑劣な男―領議政に握られているのだ。今更、引き返せはできない。
誠恵は、いかにも哀しげな表情になる。
「旦那さま、お聞き下さいませ。私の実家は両班とはいえ、とても貧しく、父はしがない下級官吏にすぎませんでした。それでも、まだ父が生きていた頃は良かったのです。慎ましくしていれば、一家五人、何とか暮らしてゆくことはできました。でも、父が病で亡くなり、私たちは寄る辺を失い、その日食べる米にさえ事欠く有様となってしまいました。幼い弟や妹たちは腹が空いたと一日中泣きっ放しで、私は、そんな弟妹を見ていられず、母に自分から進んで妓生(キーセン)になると告げたのです」
腹を空かせた弟妹たちが泣いていた―というのは、満更、全くの嘘というわけではなかった。こんなときでさえ、あのときの妹や弟たちの泣き声を思い出しただけで、涙が溢れる。これは偽ではなく、まさしく本物だった。
「―」
王の端整な貌が強ばった。
「妓生に―、遊女になると、そなたは自分自身で母御に申したのか?」
このひと言で、王の心に大きく揺さぶりをかけることができた。手応えは十分ありそうだ。
誠恵はうなだれ、眼尻の涙をそっと拭う。
「はい、そうするしか他に私たち一家が生き延びるすべは最早ございませんでしたから。ですが、私の覚悟が足りなかったようにございます。私が身を売り、我が家に幾ばくかの金が渡り安堵したものの、いざ、客を取ることになると、怖じ気づいて逃げ出してきてしまったのです。妓楼を出てからというもの、追っ手に見つかって連れ戻されては一大事と、ずっと身を隠して逃げ回っておりました」
だから、女官になりたいのだと、誠恵は真摯な眼で訴えた。
「こうして旦那さまにお逢いできたのも、御仏のお導きにございましょう。同じ親孝行をするなら、妓生に身を堕として身売りするよりも、後宮の女官となって国王殿下のおんためにお仕えしとうございます」
女官になれば、家族の許にも定期的に米や金が支給される。
「なるほど、そなたが女官になりたいと望むのには深い事情があったのだな」
王は納得したように頷いた。
「緑花」
優しい声音で偽りの名を呼ばれ、誠恵は顔を上げる。
「あい判った。そなたの望みは聞き届けよう。伯父上は朝廷の実力者だ。私が頼めば、きっと、そなたを女官として後宮に入るように取り計らって下されるだろう」
「嬉しうございます。このご恩は、けして忘れません」
あどけない笑みを浮かべて言うと、王の顔が一瞬、紅くなった。
「い、いや、たいしたことではない」
誠恵の思考は目まぐるしく回転する。
作品名:闇に咲く花~王を愛した少年~ 作家名:東 めぐみ