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闇に咲く花~王を愛した少年~

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「大丈夫だ。この女人は一時、気を失っているだけだ。そなたが私をここに連れてきてくれたお陰で、最悪の事態は避けられたようだ。ありがとう、礼を申すぞ」
 若者が言うと、女の子ははにかんだような笑顔になる。とても愛らしい笑顔だ。彼は懐から小さな巾着を取り出すと、女の子の手に握らせた。
「これで、何か好きなものでも買って貰いなさい」
 巾着の中には、幾ばくかの金が入っている。贅沢に慣れた両班にとっては、はした金でしかないが、女の子の両親が二、三ヵ月は働かなくても良いほどの額はあるだろう。
 女の子は嬉しげに笑い、ペコリと頭を下げると、また兎のように飛び跳ねながら走り去った。
 子どもとは実に可愛いものだ。あの年頃であれば、彼の甥とさして変わらないだろう。早くに逝ってしまった兄の忘れ形見である甥を、彼は弟、或いは息子のように可愛がっている。
 若者は女の子の姿が見えなくなるまで見送っていたが、やがて、小首を傾げた。
 この行き倒れの娘をこのまま放っておくわけにはゆかない。それでなくとも、都は物騒なところだ。民心は安定してきたとはいえ、夜には盗賊が徘徊する。殺人事件が起こることも珍しくはない。
 また、この界隈は昼間でもなお人気がなく、とりわけ危ない。こんな若い女が一人正気を失って倒れていたら、不心得者にどこかに連れ込まれて慰み者にされ、挙げ句には遊廓に売り飛ばされるのが関の山だ。
 彼は娘を抱き上げ、再びゆっくりとした脚取りで歩き始める。少し歩いたところで、娘が少し身を捩った。
 何事かとその顔を覗き込んで、彼は改めて、この娘が稀に見るほどの美貌だと気付いた。
 翳を落とす長い睫、桜色のふっくらとした唇、白い膚はなめらかで、ふと、そのやわらかな頬に触れてみたいと思う。思わず見惚(みと)れていると、睫が細かく震え、娘がゆっくりと眼を見開いた。
 最初、娘は自分がどこにいるのかも判らないようだったが、直に我に返ったようだ。大きな瞳を一杯に見開いて、彼を見つめる。
 彼は、その瞳にひとめで魅了された。黒曜石のように冴え冴えとした輝きを放つ瞳に吸い込まれそうで、眩暈(めまい)すら憶える。
 やがて、その瞳に忽ち怯えが浮かんだ。
「大丈夫だ、私は、そなたに害をなす者ではない」
 彼はできるだけ優しい顔に見えることを心で祈りながら、娘に微笑みかけた。

 逞しい腕に抱き上げられた誠恵は、ゆっくりと眼を開いた。むろん、本当に気絶していたわけではなく、あくまでも気を失ったふりをしていたにすぎない。
 すべては巧妙に仕組まれた芝居だ。
 誠恵の耳奥で月華楼の女将の言葉が甦る。
―国王殿下は毎日のようにお忍びでお出かけになるそうだ。
 伴の一人も連れず町中を徘徊するなんて、何とも風変わりな国王だと思ったものだが、そのお陰で、誠恵は任務を遂行し易くなる。
 女将からは、あくまでも〝か弱い娘のふりを通すように〟と念を押されている。
 誠恵の任務とは、昨夜、領議政に命じられたとおり、国王を虜にし、その色香で彼女に惑溺させること。そして、その隙を突いて、王の生命を奪うことだ。
 まずは、この若い王の心を自分の方に惹きつけておかねばならない。
 誠恵は、精一杯、怖がっている風を装ってみた。
 案の定、王は狼狽したようだ。
「大丈夫だ、私は、そなたに害をなす者ではない」
―何とお人好しの男。
 誠恵は内心、呆れた。この様子では、この男を籠絡するのは難しくはないかもしれない。
 王が誠恵を連れていったのは、さる大きな屋敷であった。誠恵は、この屋敷の主人がそも誰であるかを知っている。月華楼の女将香月から予め予備知識として与えられていたのだ。更に、行き倒れの娘を拾った王がどこにその娘を運び込むかということまで香月は予見していた。
―これが、左議(チヤイ)政(ジヨン)孔賢明の屋敷。
 いよいよ敵の懐に飛び込んだのだ。いかなる失敗も許されない。
 誠恵は全身に緊張が漲るのを憶えた。
 屋敷の奥まった一室が誠恵のために用意された。そこは見たこともないほど広々としており、室内はいかにも若い女性の住まいらしく美々しく飾り立てられている。
 色鮮やかな緋牡丹が描かれた衝立や華やかな桃色の座椅子など、思わず眼を奪われるほどだ。
 既に床がのべられており、誠恵を抱えてきた王はまるで壊れ物を扱うような慎重な手つきで彼女を横たわらせた。褥もまたすべて絹でできており、彼女が使ったこともないものだ。すべてが夢のような世界だった。
 王は誠恵を部屋に落ち着かせると、すぐに宮殿に帰っていった。
 帰り際、誠恵が慌てて起き上がって見送ろうとするのを、王は笑顔で制した。
「身体がまだ回復しておらぬのだ。私のことは気にしないで、寝ていなさい」
 静かに閉まった戸を茫然と見つめながら、誠恵は眼を伏せる。
 優しそうな笑顔をしたひとだった。この男を私は本当に殺せるのだろうか。
 次の瞬間、慌てて気弱になりそうな我が身を叱咤する。
 いや、何がどうあろうと、あの見るからにお人好しな男に間違っても憐憫など憶えてはいけない。この計画が失敗すれば、自分だけでなく大切な家族まで生命を失うことになるのだ。
 躊躇いは禁物。私は必ずあの男を殺さねばならない。誠恵は自分に言い聞かせた。
 次に王が孔賢明の屋敷を訪れたのは、その二日後であった。ちなみに左議政孔賢明は、光宗の実の伯父に当たる。亡くなった光宗の生母仁彰王后の実兄として、早くから朝廷でも幅をきかせてきた男である。今年、四十七になると聞いているが、なかなかどうして侮れぬ人物のようであった。
 現在も光宗の外戚というよりは、忠実な臣下として若い王を支え、その片腕となって活躍していると聞く。
 光宗が訪れた時、誠恵は丁度、刺繍をしているところであった。コホンと小さな咳払いが戸の向こうで聞こえ、誠恵は慌てて立ち上がる。ほどなく王が姿を現した。
 頭を下げる彼女に、王は苦笑を浮かべて首を振った。
「そのように畏まらないでくれ。私は、貧乏貴族の三男で、たいした力も金もない甲斐性なしの男なんだ」
 嘘ばっかりと、誠恵は思ったものの、むろん口には出さない。息をつくように嘘をつくのが得意というのなら、この男に対する認識は少し改める必要があるかもしれない。
 流石は〝狐〟と噂される策謀家の左議政の血を分けた甥だけはある。
「何をしていたのだ?」
 興味深げに問われ、誠恵は頬を少し染め、さも恥ずかしがっているようにふるまった。
「刺繍をしておりました」
「ホウ、私にも実際にしているところを見せてくれぬか」
 言われたとおりに誠恵は手を動かす。器用に手を動かしている誠恵を見て、王は感嘆の声を上げた。
「実に不思議なものだ。針と糸だけで、そのような一枚の絵が出来上がるとは」
 誠恵が刺しているのは、黄色い薔薇であった。大輪の薔薇の花が一つに、蕾が三つ、もうほぼ出来上がっている。純白の絹布の上にひらいた大輪の薔薇は艶やかに咲き誇り、その香りにいざなわれるように蝶が迷い込んできても不思議はない。それほどに花の美しさを見事に描写していた。
「お恥ずかしい限りでざいます」
 頬を染める誠恵を、王は眩しげに見つめた。