闇に咲く花~王を愛した少年~
左議政は油断ならぬ男だ。あまりに身分の高い人ゆえ、この屋敷の懸かり人にすぎない誠恵は初対面の挨拶をしただけで、言葉を満足に交わしたこともない。だが、あの鋭い眼は、どんな些細な嘘や謀(はかりごと)でも見抜いてしまいそうだ。
誠恵としても、一日も早く、左議政の屋敷から宮殿に移りたい。その方が事はずっと運びやすくなるだろう。あの左議政の眼の届くこの屋敷では動きづらい。
いずれにしても、焦っては駄目だ。まずは、この若い王の心を十分に掴まなくては。
誠恵は、いっそう無邪気な微笑みを浮かべ、王を見つめる。
王はまるで惚(ほう)けたように可憐な少女の笑顔を見つめていた。
その二日後、誠恵は左議政孔賢明の屋敷から宮殿に移った。
いよいよ事を始めるときが来たのだ。宮殿に移ってから、更に数日を経たその夜、誠恵はひそかに自室を抜け出した。たとえ左議政の紹介で入宮したとはいえ、下っ端女官にすぎない誠恵は朝から晩まで仕事が山のようにある。大量の洗濯物から殿舎の掃除と数え上げれば、枚挙に暇がない。
彼女が昼ではなく夜を選んだのは、他にも理由があった。まず昼は人眼につきすぎる。夜ならば、夜陰にひそかに紛れて動けば、それだけ人眼に立つ可能性は低くなるというものだ。
―国王殿下は夜、大殿(テージヨン)をひそかに抜け出すことがおありだ。
月華楼の女将香月は、そう言った。
何に想いを馳せるのか、広大な庭園の四阿から、夜空をじっと眺めているのだ、と。
誠恵は脚音を忍ばせ、南園に向かった。宮殿の庭園は、それぞれ〝北園〟、〝南園〟と呼ばれる。広大な池があるのは南園で、王のお気に入りは専ら、そちららしい。
静かな夜だった。桔梗色の夜空に、十六夜の月がぽっかりと浮かんでいる。蒼ざめた丸い月は蒼みがかった水晶を思わせた。
清(さや)かな月明かりが庭園を照らし出している。眼に映るすべてものが昼間とは異なり、幻想的に見える。草木も花も、小さな小石でさえもが月の光に濡れ、淡く発光しているかのようだった。
進んでゆく中に、大きな池が見えてくる。到底人工のものとは思えないほど巨大な池は、昼間であれば、美しい錦鯉たちがゆったりと泳ぐ優美な姿を見ることができる。
池の上に張り出した四阿では、王を初め妃たちが憩い、時折は池の鯉たちに餌を与えている場面も見かけられた。
もっとも、現国王光宗には、まだ定まった妃どころか、中(チユン)殿(ジヨン)(王妃)さえいなかった。
正確に言うと、光宗はまだ幼かった慎(シン)誠(ソン)君(グン)と呼ばれていた時代、幼くして決められた婚約者がいたのだが、不幸にも、彼女は晴れの婚姻の日を見ることなく夭折した。光宗と同年のまだ九歳の幼さであった。
寿命をまっとうしていたなら、王子妃どころか、王妃にもなれる身だったにも拘わらず、病魔は無情にも少女の生命を奪い去ったのだ。
当時のこととて、婚約者同士ではあっても、互いに行き来することはなく、まともに話したことさえなかった相手だった。庶民であればともかく、身分が高ければ高いほど、婚姻というものは家同士、親同士の結びつきの要素が高くなる。両班では、祝言を終えて、新床に入るまで夫婦が互いに顔を見たこともないというのがむしろ常識である。
ましてや、国王の結婚となれば尚更だ。それでも、光宗は早くに逝った許嫁を憐れに思い、王妃を娶ることもなく側室の一人すら置かないでいる。
独身を貫こうとする若い王を、朝廷の重臣たち皆が懸命に説得しようとしたが、毎度ながら徒労に終わるのが常だった。
光宗の言い分としては、
―予に子がおらずとも、既に世子がおる。元々、予は王位を継ぐべきはずの身ではなかったのだ。世子が予の跡を継いで新たな王となり、その子孫が代々王位を継承してゆけば良いのだ。
と、極めて淡々と語っている。
光宗自身は、自分はあくまでも兄が亡くなったため、幼い甥が王位を継げる年令に達するまでの中継ぎにすぎないと考えているのだ。
しかし、朝廷の大臣たちの意見は違った。光宗の王としての優れた資質は誰もが認めるところであった。あまりにも不敬ゆえ、誰もあからさまに口にはしないが、兄の永宗よりも弟の光宗の方がよほど王の器としてはふさわしいのは明らかである。
彼等にしてみれば、海のものとも山のものとも知れぬ幼い世子よりも、既に〝この世に比類なき聖君〟と謳われる光宗に王妃を迎え、そのなした王子に王統を継承していって欲しいと願うのは当然だろう。
皮肉なことに、光宗の王位への執着のなさが余計に〝このお方こそ、王としてふさわしい〟と周囲に思わせるのだ。歴代の王の中には〝聖君〟と呼ばれた賢君も少なくはないが、そんな優れた王であっても、やはり人の子、親であり、一度王位につけば、我が子を次の玉座に据えたいと願った。
そのために、王位を巡っての血なまぐさい骨肉の争いが起きたのだ。しかし、光宗にはおよそ、そういった王位への執着がなかった。
彼が考えるのは、明けても暮れても、民のことばかりだったのだ。光宗が敢えて王妃を迎えようとしないのは、無用な権力闘争を避けるためともいわれていた。
誠恵の眼に、月を見上げる王の姿が映った。
四阿に佇み、王は眺めるともなしに夜空を仰いでいる。王衣を纏った彼を見るのは、これが初めてであった。赤い龍袍は、金糸で天翔る龍を大胆に縫い取った王だけに許される正装だ。
こんな時刻なのに、寛いだ衣服に着替えるわけでもなく、王は龍袍に身を包んでいる。
王と間近に接するにつけ、誠恵は光宗という若き国王の人となりをより知ることができた。光宗は巷の噂以上の人物だ。
穏やかな物腰と落ち着いた挙措は、何より、彼の人柄を表していた。時折、瞳に瞬く鋭い光は、彼がけして大人しいだけの男ではないことを物語っている。しかし、その眼光の鋭さが対する者に威圧感や恐怖感を与えないのは、相手を包み込むような大きさ、温かさが光宗の全身から滲み出ているからだ。
到底十九歳とは思えぬ存在感は、既に彼が偉大な国王であることを示している。
優れているのは何も内面だけではなく、容貌もまた〝緋牡丹のごとし〟とその美しさを謳われた母后仁彰王后ゆずりだった。愕くほどの長身で、武芸の鍛錬も欠かさぬ体軀は逞しく、気品と優美さだけでなく、精悍さも併せ持っている。整った容貌に王としての優れた資質、更には国王という地位―、これだけのものに恵まれている男は、どこを探してもいないだろう。
そのため、朝廷の臣下たちは皆、己が娘を若い王の妻―つまり中殿にしたがった。いや、正室でなくとも、側室でも良いからとこいねがう者も跡を絶たなかったのである。それでも、王は、けして妻を持とうとはしなかった。
光宗を知れば知るほど、誠恵の中に迷いが生じる。果たして、この輝ける太陽のような聖君を弑し奉ることがこの(朝)国(鮮)にどれほどの影響を与えるのか。そう考えただけで、あまりの怖ろしさに身が震えそうになるのだった。
作品名:闇に咲く花~王を愛した少年~ 作家名:東 めぐみ