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闇に咲く花~王を愛した少年~

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 誠恵がこの命を拒めば、この男は言葉どおりに村の家族を殺すだろう。自分の目的や野心を遂げるためには、他人を犠牲にしても何の呵責も感じない、そういった男なのだ。
「逃げようとしても無駄だ。たとえ、どこにゆこうと、私の眼から逃れることはできぬ」
 尚善は立ち上がり、入ってきたときと同じように堂々とした脚取りで出ていった。戸が閉まる直前、尚善の声が聞こえた。
「明日、ここを出るが良かろう。女将がすべて手筈を整えてくれる。そなたは女将の言うとおりに動け。すべての連絡は女将を通じて行うゆえ、何か緊急の際はここに来るのだ」
 一人になって、誠恵は頬をつねってみた。
 これは、きっと悪い夢。自分などの何の力もないただの子どもが国王暗殺などという大それた陰謀に巻き込まれてしまうなんて、あり得ない。
 でも、誠恵の手には紛れもなく一輪の薔薇がある。淡い闇の中でも色鮮やかに咲き誇る黄色の薔薇。この薔薇こそが、あの男―この国の領議政孫尚善がつい先刻までこの部屋にいた何よりの証であった。
「痛ッ」
 うっかり力を込めてしまい、指を棘で刺してしまった。白い人さし指から見る間に血が盛り上がり、滴り落ちる。かすかな痛みを訴える指先を咄嗟に口に銜え、誠恵は思った。
 当然だ、棘で刺せば、血は流れるし、痛みも感じるだろう。果たして、自分にできるのか? 恨んでも憎んでもいない人の生命を奪えるだろうか。
 だが、あの男は怖ろしげではあるが、嘘をつくようには見えなかった。もし自分が任務をやり遂げたなら、家族の暮らしはこの先ずっと保証してやると言ったのだ。
 たとえ相手が聖君と崇められる国王でも、何を躊躇う必要がある? 幾ら情け深い国王であっても、国王が母や弟妹たちを直接救ってくれるわけでもないし、面倒を見てくれるわけでもない。
 良心の痛みなどこの際、きれいさっぱり棄てて、あの男の手先となり、国王の生命を奪えば良いではないか。国王暗殺に失敗すれば、自分の生命はないばかりか、それこそ家族にまで咎が及ばないとも限らない。
 迷っている暇はない。賽は投げられたのだ。始まったからには、この賭けには是非とも勝たなければならない。この計画の成功に、自分と家族の生命がかかっているのだから。
 誠恵は口に指をくわえたまま、じいっと闇の一点を睨み続けていた。

    揺れる心

 一人の若者がのんびりと往来を歩いていた。玉(ぎよく)を連れねた鍔広の帽子を被り、薄紫の衣を身に纏ったその姿はすっきりとして整った容貌をより魅力的に見せるのに役立っている。
 彼が今ゆく大路は、国王のお膝許である都の中でもとりわけ賑々しい大通りである。二年前、成年に達したと認められた若き王は親政を始め、王が即位してから続いていた大王大妃の垂簾政治は終わりを告げた。
 若い王は政に積極的な姿勢を見せ、兄の先代や先々代の父王の頃からの重臣たちの意見を尊重しつつも、自らの意見を政治に反映させようと試みている。彼がまずいちばんに取り組んだのが民の困窮をわずかでも軽減することであった。
 これまでは秋の収穫高に拘わらず、一定の年貢を取り立てていたのを、初めて収穫できた量の何割というように変えた。これは貧しい農民には熱烈な歓迎を受け、長らく不当な取り立てに苦しめられてきた民は歓呼の声を上げた。
 次に、氾濫を繰り返す国内の河川を調べさせ、大幅な治水工事を行った。工事に必要な人夫は、都に地方から流れ込んできた流浪者を使い、労働に従事する見返りに、日当として賃金を支払う。この施策は、都に溢れ返っていたゆき場のない民を救済するにも役だった。
 今、朝鮮には、若き国王光宗の即位によって、輝かしい繁栄の時代が到来している。政治の安定は、民心をも落ち着かせる。そのことを物語るかのように、都中、どこに行っても、人々の表情は生き生きと輝き町は活気に溢れ、躍動感があった。
 若者は忙しなげに行き来する人々に頓着せず、ゆっくりとした脚取りで歩いてゆく。時折立ち止まっては、満足げに周囲を眺めていた。
 と、向こうから小さな女の子が駆けてきた。五歳くらいであろうその子は庶民の娘らしく、慎ましやかないでたちをしていた。が、暮らし向きはそう悪くはない家庭で育っているようだ。質素ではあるけれど、きちんとした身なりをしていた。
「危ない」
 女の子は脇目もふらず、野兎のように疾駆している。危うく若者はその子にぶつかりそりになってしまった。
「どうしたのだ? こんな人通りの多い往来でそのように走っていては、怪我をするぞ」
 優しい質らしく、若者はしゃがみ込むと、幼児と同じ眼線の高さになった。
 言い聞かせるように言ってやっても、女の子は首を振るばかりだ。
「どうした、何かあったのか?」
 彼は辛抱強く訊ねる。
 しばらく肩で息をしていた女の子が漸く口を開いた。
「お姉ちゃんが、お姉ちゃんが大変なの」
「お姉ちゃん―? そなたの姉がいかがしたのだ」
 女の子が彼の手を掴み、引っ張る。
 どうやら付いて来いという意思表示だと判った彼は、手を引かれるままに女の子に付いて走った。
 女の子は人混みを器用にかいくぐってゆく。もっとも、上背のある彼はそういうわけにはゆかなかった。途中で何度か通行人にぶつかりそうになったが、両班の若さまらしい上等の衣服を纏う彼を見て、文句を唱える者はいなかった。この国では身分制度が何より重んじられる。極端なことを言えば、一般の民が両班に逆らうこと自体が罪とされるのだ。
 それでも、若者は律儀にぶつかった人に〝済まない、急いでいるのだ〟と謝っていた。
 女の子はやがて人混みを抜け、町外れまで彼を連れてきた。この辺りになると、商家や民家もぽつりぽつりと点在するだけで、人どころか、犬の子一匹さえ通らない。
 ちらほらと家が建つ様は、まるで、あちこち欠けた櫛の歯のようだ。家々が途切れた四ツ辻まで来ると、小さな川にゆき当たった。名も知られてはいない小さな川に、これまた小さな橋がかかっている。
 女の子が荒い息を吐きながら立ち止まり、彼に手で前方を示す。その視線の先には、人が倒れていた。丁度、橋のたもとに若い女が倒れ伏している。
 彼は急いで女の傍に駆け寄った。
「大丈夫か? おい、しっかり致せ」
 若者は女を抱え起こし、軽く身体を揺さぶってみる。しかし、女は身じろぎもせず、固く眼を瞑ったままだ。或いは、可哀想だが、既に息絶えているのかもしれない。彼は咄嗟にそう思った。都には地方から流れ込んできた貧しい民が溢れている。そうした人々は大抵、それまで暮らしていた土地では暮らしてゆけなくなり、都にゆけば何か仕事があるのではないかと当てにして来るのだ。
 しかし、都にもそうそう仕事があるはずもなく、結局は、家すらも失い、完全に流民となり果ててしまうのである。
 この女も地方から出てきた田舎娘なのだろう。現に、着ている衣服は泥や埃にまみれ、あちこち破れている。彼をここに案内した少女の方がまだはるかにマシな、きちんとした身なりをしていた。
 恐る恐る娘の口許に手をかざすと、息遣いが感じられる。念のため、細い手首を掴み、脈を検めると、こちらも規則正しい。
 心配そうに二人を見守る女の子に、若者は微笑んだ。